舞楽は、まず左方(さほう)と右方(うほう)の2つに大きく分けられています。渡来した舞や器楽が再編成されるなかで、宮廷社会の影響を受けたことによるものです。左方と右方とでは、いろいろな点に違いがあり、その差異に対称性を見ることができます。
舞楽を左方と右方に分けるもっとも根本的な基準は、もととなる舞や器楽の由来による違いです。中国系の楽舞を源流とするものを左方の舞として左舞(さまい)、朝鮮半島系の楽舞を源流とするものを右方の舞として右舞(うまい)と呼びます。
舞に伴って奏される音楽は、それぞれ唐楽(とうがく)と高麗楽(こまがく)を用いることが基本です。双方とも、管楽器と打楽器による器楽である点は同じですが、楽曲の由来が異なるうえ、編成する楽器にも違いがあり、音楽の響き方にも各々の特徴が出てきます。
舞人が着る装束は、左舞が赤系統の装束を基調とするのに対し、右舞は緑系統の装束であることが基調となります。舞台へ登場するときも、舞台後方の左側から舞人が現れる左舞に対して、右舞の舞人は舞台後方の右側から現れます。さらに、舞台上での舞人の位置や動きなどにも、同様の対称性を見ることができます。
また、音楽の旋律にあわせて振りが付けられる左舞では、舞と楽曲の始まりと終わりが一致するのに対し、リズムのかたちに合わせて振りが付けられている右舞では、旋律と振りとのあいだに決まった対応関係がないことになります。
さまざまな地域から何世紀にもわたり渡来してきた舞や器楽が、舞楽として大成されたのは平安時代のことです。
とくに平安の初め頃は、渡来した舞や器楽への理解が進み、楽曲の改作や新作が活発に行われる一方、舞人や楽人の名手も次々と生まれ、創作活動がたいへん盛んになりました。
そして、それまで雑多に併存していた渡来の舞や器楽は、中国系を中心とした左方と、朝鮮半島系の右方とへ、次第に整理されていきます。また、二分化とともに、似た舞姿を持つ左右の演目を一組とする番舞(つがいまい)という考え方も生まれ、現在に繋がる舞楽としての上演形態が確立されていったのです。
このように二分化していったのは、宮中の武官である近衛府(このえふ)の官人たちが、左右に分かれてさまざまな武技を争い、その余興として舞や器楽を奏したことと関わりがあるようです。また、左を陽、右を陰とする陰陽思想(いんようしそう)とも結びつき、多くの対称性を持つ日本独自の舞楽へと整えられていきました。