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菅原伝授手習鑑TOP > 背景を知る > 登場人物の実在のモデル > 菅原道真
『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の主人公は菅丞相(かんしょうじょう)ですが、そのモデルとなったのはいうまでもなく菅原道真(すがわらのみちざね)です。道真は、承和12年(845)、菅原是善(すがわらのこれよし)と伴氏(ともうじ)の娘との間に生まれます。菅原氏は、奈良時代以来の名門ではありましたが、権力とは縁遠い学者の家柄でした。道真は幼少の頃より父から手ほどきを受け、18歳という異例の若さで当時の官僚育成機関であった大学寮に合格して優秀な成績を収め、貞観12年(870)には官吏の登用試験である方略試(ほうりゃくし)に合格、正六位上を授けられます。その後、いくつかの役職を経ますが、仁和2年(886)には、讃岐守(さぬきのかみ)として四国へ赴任しています。この職にある間に起きたのが、「阿衡事件(あこうじけん)」です。これは、藤原時平(ふじわらのときひら)の父・藤原基経(ふじわらのもとつね)が宇多天皇から関白に任ぜられる際に使われた言葉に文句をつけ、天皇にこれを撤回させ、やり直させるといった政治的な紛争で、道真はその際、争いを長引かせることは藤原家のためにもならないとする意見書を基経に送っています。この事件は、宇多天皇にとっても自尊心を傷つけられる出来事であったようで、基経を諌(いさ)めた道真を重用したのも、このためだと考えられています。
こうして宇多天皇という後ろ盾を得た道真は、目覚ましい出世を遂げることとなり、寛平7年(895)には従三位権中納言(じゅさんみごんちゅうなごん)に任ぜられています。宇多天皇は寛平9年(897)に天皇の座を第一皇子の醍醐(だいご)天皇に譲りますが、道真を重用するようにと進言しており、醍醐天皇もこれに従い、道真は昌泰2年(899)、右大臣に昇進し右大将を兼任することとなります。
家柄も高くはなく、真面目で実直な学者肌の道真の急速な躍進を面白くないと思っていた人物が、『菅原伝授手習鑑』でもライバルと位置づけられている左大臣・藤原時平でした。政権の中枢を担ってきた藤原氏の利権を守ろうとする時平から、謀反の疑いがあると讒訴(ざんそ)された道真は、昌泰4年(901)、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されてしまいます(「昌泰[しょうたい]の変」)。太宰府は当時、重要な政治的拠点とされてはいたものの、中央政権での政治生命は絶たれたも同然で、失意の中、道真は2年後の延喜3年(903)に同地で亡くなりました。その後、都で不幸な出来事が続いたため、道真の祟りではないかと恐れられ、怨霊を鎮めようと、延長元年(923)には、右大臣に復位されるとともに正二位、正暦4年(993)には正一位左大臣(しょういちいさだいじん)、太政大臣(だじょうだいじん)の位が追贈されています。また、永延元年(987)には「北野天満宮天神」の神号が贈られ、以後、天神としての信仰も集めることとなります。
道真は、歴史書の編修にもあたりましたが、とりわけ詩歌に秀でており、『菅家文草(かんけぶんそう)』、『菅家後集(かんけこうしゅう)』などの著書にその作品を残しています。また、後世の勅撰和歌集にも道真の作品が選出されており、『菅原伝授手習鑑』にも登場する「東風(こち)吹かばにほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』。「春な忘れそ」となったのは後世)、「このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」(『古今和歌集』、『小倉百人一首』)などが有名です。
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