「能の本を書くこと、この道の命なり。」
世阿弥(ぜあみ)のこの言葉の通り、能役者にとってすばらしい能を作り、豊富な演目を持つことが、座の名声と繁栄を得るための生命線でした。
ここでは能作者たちのつながりと業績を通して、室町時代の能の世界を見ていきましょう。
物まねなどの雑芸が中心だった猿楽(さるがく)は、室町時代初頭ごろから「能」という演劇形態の芸も演じるようになります。断片的な芸ではなく、より複雑な筋書きを持つ「作品」が生まれると、その作品名や作者名が記録されるようになりました。世阿弥の伝書には最古の能作者たちの名があり、その1人に父・観阿弥がいます。役者として名人であった観阿弥は、能の創作面でもすぐれた才能を示しました。少女を救おうとする僧の芸尽くし(げいづくし)が見どころの『自然居士(じねんこじ)』、僧と卒都婆(そとば)をめぐる問答を繰り広げた老女・小野小町に怨霊がのり移る『卒都婆小町(そとばこまち)』、小町の霊の成仏を少将の霊が阻もうとする『通小町(かよいこまち)』などが観阿弥の作品です。どれも世阿弥時代に改変されており、観阿弥が作ったままのかたちでは演じられていませんが、言葉のやり取りの面白さを主体に、起伏ある劇展開を見どころとする点に、観阿弥の作風が表れています。
能 (喜多流) 『自然居士』 平成14年6月14日
国立能楽堂 〔シテ〕塩津哲生
能の成立は、世阿弥の存在抜きで語ることはできません。父の観阿弥(かんあみ)や近江猿楽(おうみさるがく)の犬王(いぬおう)などの芸を学びながら、「夢幻能(むげんのう)」という独特の劇形式を作り上げ、後代の能作者たちにも大きな影響を与えました。愛する者との別離と再会を描く「物狂能(ものぐるいのう)」を確立したのも功績の1つです。世阿弥の作品は歌と舞を中心としていますが、ただ見た目の美しさや面白さに頼るのでなく、縁語(えんご)や掛詞(かけことば)など和歌や連歌の技法を駆使した作詞法による、心情と情景が一体となるような美しい詞章にも、大きな特徴と魅力があります。
能 (観世流) 『井筒』平成18年11月11日
国立能楽堂 〔シテ〕山本順之
- 『高砂(たかさご)』
- 『老松(おいまつ)』
- 『清経(きよつね)』
- 『敦盛(あつもり)』
- 『忠度(ただのり)』
- 『江口(えぐち)』
- 『井筒(いづつ)』
- 『姨捨(おばすて)』
- 『西行桜(さいぎょうざくら)』
- 『砧(きぬた)』
- 『花筐(はながたみ)』
- 『班女(はんじょ)』
- 『桜川(さくらがわ)』
- 『鵺(ぬえ)』
- 『融(とおる)』
- 『野守(のもり)』
- 『花伝(かでん)』
- 『花鏡(かきょう)』
- 『至花道(しかどう)』
- 『二曲三体人形図(にきょくさんたいにんぎょうず)』
- 『三道(さんどう)』
- 『拾玉得花(しゅうぎょくとっか)』
- 『世子六十以後申楽談儀(ぜしろくじゅういごさるがくだんぎ)』
- 『金島書(きんとうしょ)』
世阿弥が役者としての能力を高く評価している息子・元雅は、優れた能作者でもありました。早世のためか、彼が残した能は多くはありませんが、どれも世阿弥作品と同様に高い芸術性を備えています。意外なのは、父の作風とは大きく異なる点です。元雅の作品は、息子の死に直面する母の悲嘆を描いた『隅田川(すみだがわ)』、盲目の少年の心境を描いた『弱法師(よろぼし)』、死から蘇生した男の奇異な運命を語る『歌占(うたうら)』、処刑されるはずの男が観音の慈悲に救済される『盛久(もりひさ)』など、どれも歌や舞で表現される華やかさはなく、極限の苦難を通して人間の悲哀を描いている点に特徴があります。『申楽談儀(さるがくだんぎ)』には、『隅田川』の演出をめぐり世阿弥と対立したという逸話も残っているので、元雅は父の作風を学びながらも、意識的に能の新しい表現を模索したのでしょう。
能 (観世流) 『隅田川』 平成16年7月7日 国立能楽堂
〔シテ〕梅若六郎
世阿弥の娘婿であった金春禅竹は、伝書の相伝を受けるなど、義理の父から多くのことを学んでいます。その影響は能の創作面にも見られ、禅竹の作品は、歌と舞を中心とする美しい能を目指した世阿弥の作風を受け継いでいます。藤原定家(ふじわらのていか)の情愛に苦しむ式子内親王(しょくしないしんのう)の霊をシテとする『定家』、植物の精を主人公とする『芭蕉(ばしょう)』、「伊勢物語」から着想を得た『小塩(おしお)』、使者が楊貴妃(ようきひ)の魂をたどり蓬萊宮(ほうらいきゅう)におもむく『楊貴妃』など、十数曲が禅竹作とされています。世阿弥の作品に比べると主題が不明確で、難解な曲が多いですが、美しさだけではなく、その中に渋みやもの悲しさを表現していると評価することもでき、世阿弥の作風にとどまることなく、自らの世界を切りひらこうとした禅竹の美意識が感じられます。
応仁の乱(1467年)以降にも新しい作者たちが登場します。その一人が観世信光です。音阿弥(おんあみ)の第7子で、優れた大鼓役者であった信光は、能の創作にも才能を発揮しました。戦乱の続いた都では、貴人たちの援助を受けることができず、民衆など幅広い観客を獲得する必要があったため、信光は平易な文章で、内容がわかりやすく、動きが派手な能を作り、座のレパートリーの幅を広げました。平家の怨霊が源義経(みなもとのよしつね)を襲う『船弁慶(ふなべんけい)』、ワキの活躍が多い『張良(ちょうりょう)』、美女が鬼に変身する『紅葉狩(もみじがり)』などが代表曲です。一方、『遊行柳(ゆぎょうやなぎ)』『胡蝶(こちょう)』の詞章からは、古典や漢詩文の豊富な知識があったことがうかがえ、文才を兼ね備えた能作者であったこともわかります。
能 (観世流) 『船弁慶』 平成17年2月12日
国立能楽堂 〔シテ〕野村四郎
観世信光と同時代に活躍した、室町後期を代表する能作者が金春禅鳳です。金春禅竹の孫にあたる禅鳳は、金春大夫(こんぱるたゆう)として座を率いるとともに、『反古裏之書(ほごうらのしょ)』『毛端私珍抄(もうたんしちんしょう)』などの伝書も書き残しました。禅鳳は芸談の中で信光の鬼能を批判しているように、観世座に対抗心をもっていたらしく、その意欲が能の創作にも見られます。きらびやかな扮装で多くの神が登場する『嵐山(あらしやま)』、龍神が岩屋から飛び出す様を派手な舞台装置で表現する『一角仙人(いっかくせんにん)』などは、ショーとしての面白さを前面に出しており、信光と同様に当時の観客層を強く意識した作風です。また、現在金春流のみの演目となっている『初雪(はつゆき)』のように、孫のために書いた作品もあり、子孫の繁栄を願う禅鳳の思いが伝わってきます。
『反古裏之書(ほごうらのしょ)』『毛端私珍抄(もうたんしちんしょう)』『禅鳳雑談(ぜんぽうぞうたん)』
世阿弥は能を作ることを非常に大切にしていましたが、室町後期にはすでに既成の曲が繰り返し演じられるようになり、能が新作されることは少なくなっていきました。信光の息子・長俊が生きた戦国時代は、次々と能が新作された最後の時代です。長俊はワキの役者として活躍しましたが、能の創作面では父の特徴を受け継ぎました。動きが多い華やかな能を作り出した父の作風を、さらに発展させていった点に長俊の個性があります。お経を収める書棚が回転する『輪蔵(りんぞう)』、大勢の武士の斬り合い場面がある『正尊(しょうぞん)』、龍神がほかの神を引き連れて登場する『江野島(えのしま)』など、他の能にはない視覚的な派手さがあります。今日の能のスケールでは収まりきらないような作品も作りましたが、そのほとんどが現在演じられていません。能の可能性を極限まで拡大させた長俊は、まさに異色の能作者だったといえるでしょう。