震災からの復興

 岩手県、宮城県、福島県の太平洋沿岸部には、ざっと数えても1,000団体以上の民俗芸能が伝承されています。2011年3月11日に発生した東日本大震災では、その多くが被災しました。楽器や道具などが流されたということもありましたが、それ以前に民俗芸能を伝える地域そのものが破壊されたのです。もはや民俗芸能どころではないという状況でした。

 けれども震災から1ヶ月を過ぎた頃に、ある新聞に「陸奥(むつ)の民俗芸能ピンチ」という見出しが載りました。それから民俗芸能の被災が、報道などでも少しずつ取り上げられるようになっていきます。瓦礫(がれき)の中からお面や楽器を見つけ出して、再開を期待する被災者の声も紹介されるようになりました。「何もかも失ってしまったけれど、民俗芸能まで失いたくはない」という声も聞かれるようになりました。

竹浦の座布団獅子と復活獅子

 例えば宮城県の女川(おながわ)町には、数十から百戸程度の集落が海岸部に点在していましたが、その多くに獅子舞(獅子振りという呼び方をしています)が伝えられていました。集落ごとの獅子のバリエーションも豊富で、中には鹿の角を思わせる形の耳や、ミッキーマウスのような丸い耳、目玉の飛び出したものなど様々です。

 しかしそうした獅子や道具類が、みな流されてしまったのです。最初は獅子舞どころではないと思っていた人々も、徐々に獅子舞を復活したいという思いを抱くようになりました。例えば竹浦(たけのうら)地区の住民は、そろって他県のホテルで集団避難生活を送っていました。あるとき、そこにあった座布団を折り曲げて空き缶を目に、スリッパを耳にして、即興で獅子頭を作った人がいたそうです。ホテルにあった太鼓を借りて、それを持って舞ってみたところ、皆がとても勇気づけられたといいます。

 その後、こうした民俗芸能の復興支援が始まり、女川町の獅子舞もその対象となりました。ただ、そこで一つの問題が立ちはだかります。流された獅子を再現したくても、写真類もすべて流されたので、参考となる資料がないのです。それでも獅子頭を作る職人が何度も足を運び、修正を加えながら作ることを繰り返したそうです。そうした努力が実を結び、やがてすべての獅子舞が再建されました。

 しかし獅子舞が回る集落が再建されなければ、本当の復興にはなりません。座布団獅子を作った竹浦集落では、その後町内の仮設住宅に移りましたが、住民がばらばらに分散して住まざるを得ない状況でした。唯一再会することができたのが、正月の獅子舞と4月の春祭りの機会だったそうです。まさに獅子舞が、住民の心をつなぎとめていたのでしょう。震災から6年を経た頃からようやく集落の高台移転が進み、本当の意味での獅子舞の復興が成りました。

竹浦獅子振り

 一方、東日本大震災の被災エリアには少し変わった民俗芸能の演じ方をする地域もありました。岩手県の三陸沿岸部、例えば山田町では、毎年9月に山田八幡(はちまん)宮と大杉神社の祭りに、周辺集落の民俗芸能が集まってきて演じるのです。例えば、山田大神楽・不動尊神楽・八幡大神楽・関口剣舞(けんばい)・八幡鹿舞(はちまんししまい)・山田境田(さかいだ)虎舞・愛宕青年会八木節などなど。本来は正月の芸能である大神楽と、盆の芸能である剣舞や鹿踊りとが、同じとき、同じ場所で演じてしまうという珍しい状況なのです。大槌(おおつち)町、釜石市、大船渡市、陸前高田市などでも、こうした祭礼形態が見られます。

 さらに福島県の沿岸部でも、お浜下りと呼ばれる祭礼がいくつもあり、これにも周辺部から民俗芸能が集まってきました。例えば12年に一度行われる鹿島日吉神社(南相馬市)のお浜下りでは、たくさんの民俗芸能が、神輿(みこし)とともに行列を組んで海岸に向かいます。江垂宝財踊(えたりほうさいおどり)・江垂神楽・小島田神楽・江垂御葛籠馬(おつづらうま)・塩崎獅子踊・塩崎大羽熊(しおのさきおおはぐま)・川子大鳥毛(かわごおおとりげ)・小島田大鳥毛・江垂鳥毛・大内万作・烏崎北組手踊(からすざききたぐみておどり)・川子手踊・烏崎中組手踊(なかぐみておどり)・大内手踊・塩崎手踊・小島田猩々(おしまだしょうじょう)・寺内手踊と、たくさんの民俗芸能が参加しています。こうした地域では、一つの民俗芸能だけが復興しても、本当の復興にはなりません。それを演じる祭りが再開されて初めて復興といえるのでしょう。

 また福島県では、原子力発電所事故の避難地域に伝わる民俗芸能の復興が、難しい問題となっています。例えば浪江町の苅宿(かりやど)という地区では、鹿舞という芸能を伝承していましたが、震災から10年経っても数回程度しか演じることができていません。演者の多くが、他県に移り住むようになり、練習の機会すらままならないのです。

苅宿の鹿舞

 同じ浪江町の請戸(うけど)という地区では、少女たちを中心とした田植え踊りが伝えられてきました。沿岸部であったために津波の被害も大きく、家も神社も流失した地域です。震災後、多くの人の尽力でいち早く再開しましたが、やはり演者の多くは各地で暮らしており、さらに震災時に少女だった演者も時間とともに成長していくので後継者を育てるのも大変です。次世代の子どもに伝えたくても、誰にどうやって伝えればよいのか、難しい問題といえましょう。

 それでも、どうにかして民俗芸能を続けることができないか、皆がさまざまな工夫を凝らしています。例えば、地域外から演者を呼べないだろうかというアイデア。三陸では、コンテンポラリーダンスなどを演じているアーティストたちが、民俗芸能の演者のもとを訪ね、その芸能を一緒に習うという取り組みがありました。震災とは直接関係はありませんが、関西の大学生たちが、青森の民俗芸能のもとに毎年訪れ、祭りの開催を手伝っている例も見られます。もちろん、外部の人を加えることについては、慎重に考えるべきかもしれません。それでもいろいろな人と一緒に考えながら、新しい方向を模索していくことは大切です。

 日本では各地でさまざまな災害が起き、また災害でなくても少子高齢化や限界集落などの問題が各地で起きています。そうした地域社会で民俗芸能がどのような役割を担うことができるのか、もう一度民俗芸能の力を見直すときなのかもしれません。

久保田裕道
独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所 無形文化遺産部 無形民俗文化財研究室長

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