伊那谷南信州に伝わる多様な民俗芸能

尾根や谷筋の文化交流と民俗芸能の継承
天竜川水系にある長野県の伊那谷(いなだに)南信州(みなみしんしゅう)は、その大半が南アルプスと中央アルプスの山麓や山間地に立地し、現在は「秘境」とも呼ばれています。その代表が、昭和12年に豊橋・辰野(たつの)間が全線開通したJR東海飯田線において、現在運航している急行「飯田線秘境駅号」で、時期限定だけに人気を集めています。
山麓の斜面や奥深い谷にある集落はまさに秘境のような面持ちですが、鉄道の敷設や戦後の高度経済成長で自動車が普及し、谷筋に新たに道路が整備される以前は、人の移動は徒歩であり、物資は馬の背で運搬されていました。南信州など山間にある地では、山の尾根(おね)筋に道が縦横に拓(ひら)かれ、多くの人が山道を通って交流していました。山地には四季を通じて豊かな自然資源があり、都市社会などの動向を察知しながら、山の資源活用による経済活動が活発でした。今では「秘境」と感じられる場は、かつては人や物資が盛んに行き来する地であり、今のようなWebなどの通信交流、テレビなどのメディアがない時代には、新たな文化や生活様式は、人や物の移動とともに各地に運ばれ、それぞれの地に根付きました。
数多くの民俗芸能を今に伝える南信州は「民俗芸能の宝庫」ともいわれています。四季を通じて行われている、この地の民俗芸能を歴史的にみていくと、中世の鎌倉・室町時代に伝えられたり、江戸時代に他の場所から習得したりしています。これらはいずれも山の尾根や谷筋を歩いての交流のなかで行われてきたといえます。
民俗芸能には、「みやこ(都)」で人気を博して流行している芸能、多くの人が集う寺社の法会(ほうえ)や祭りで行われる芸能などを、自分たちも行いたいと願って根付いたものが多くあります。そして、山などに豊かな資源をもつ南信州では、その経済力に支えられ、これらを継承するなかで、それぞれの地に独自の姿を形づくってきました。信濃(しなの:現在の長野県)は、すでに民俗学者の柳田國男(やなぎたくにお)が『信州随筆(しんしゅうずいひつ)』(昭和11年刊)で言うように、「信濃柿」「信濃桜」「信濃梅」さらには「信濃巫女」など、この地から他に出て広まったものがいくつもあります。このことは逆にいえば他所から入ってくる文化も多かったということです。
豊かな魅力をもつ多彩な民俗芸能
こうしてほかの地域との交流が盛んであったことから、秘境の地にも関わらず「民俗芸能の宝庫」とよばれるほどに多くの芸能が伝わる南信州伊那谷には、先に述べたように鎌倉・室町時代にこの地に入り、在地(ざいち)の民俗芸能となり、今に伝えられているものがいくつかあります。
その一つが阿南町新野の「雪祭り」で、明和5年(1768)の『熊谷家伝記』には応永年間(1394~1427)にこの地に伝えられたとか、享徳(きょうとく)3年(1454)に仁善寺(にせんじ)観音の田楽祭りとして行われ始めたとあります。これは修正会としての性格ももつ田楽系の民俗芸能で、その内容は奈良の春日若宮おん祭の影響を受けているといわれています。雪祭りでは「びんざさら」という楽器を使った「ささら舞」の「田楽」が重要で、この舞自体は平安時代の『年中行事絵巻』にも描かれるなど、古い歴史をもちます。異形の神として「さいほう(幸法)」とその「もどき(茂登喜)」が登場し、現在の能につながる翁猿楽との関連がうかがえる「翁(おきな)」「松影(まつかげ)」「正直切(しょうじっきり)」という演目もあります。さらに拝殿での芸能には「中啓(ちゅうけい)の舞」「順(ずん)の舞」といった神楽の流れを汲む舞があり、田楽や神楽などが複合した民俗芸能です。この芸能の祭りは豊作祈願に目的があり、それはこの時に雪が降ることによって実現するといいますが、この雪への感性は『万葉集(まんようしゅう)』の大伴家持(おおとものやかもち)などの歌でわかるように古くからのものです。

こうした「雪祭り」と同系の民俗芸能はここから南の「西浦田楽」(浜松市天竜区)、「田峯の田楽」(新城市)などにもみられます。一方、神楽には、「天龍村の霜月神楽」や「遠山の霜月祭」と総称され、12月に行われる神楽が南信州にはいくつもあります。いずれも中央に据えた大釜で湯をたぎらした舞処での神事と舞に特徴があります。こうした神楽は、南信州から愛知県三河地方の「花祭り」へと広がっていますが、神楽自体は10世紀の宮中神事に端を発し、これがその後各地に伝えられたものです。また、阿南町の「和合の念仏踊り」や「新野の盆踊り」、この地方各地の盆の「掛け踊り」には、平安時代からの踊り念仏の要素がうかがえます。

こうした古い伝統芸能の系譜をもつ民俗芸能に対し、江戸時代になると新たな芸能がいくつも南信州にもたらされ、これが根付いて民俗芸能となっています。たとえば人形芝居は、上伊那(かみいな)・下伊那(しもいな)全体ではかつて23もの座があり、地区の鎮守社(ちんじゅしゃ)の祭りなどに演じられました。現在まで活動するのは飯田市の黒田人形、今田人形、阿南町の早稲田人形と少なくなっていますが、いずれも三人遣いの人形浄瑠璃です。黒田人形は元禄年間(1688~1703)に、今田人形は宝永元年(1704)に、早稲田人形は文政年間(1818~29)以前に、淡路(兵庫県)や大坂の人形芝居が伝えられたものです。黒田人形の三番叟(さんばそう)は淡路人形の流れをもち、ここには天保11年(1840)建築の人形芝居舞台があります。

また、南信州では約80カ所で祭礼時などに獅子舞が行われています。室町時代初期の獅子頭も残っていますが、現在みられるような獅子頭の後ろに10名ほどがつく屋台獅子(やたいじし)や籠獅子(かごじし)は江戸時代以降といわれています。なかでも「宇天王(うでんのう:優塡王とも)」が先導役となる高森町の瑠璃寺獅子舞は、一度途絶えた後、享保10年(1725)頃に現在の姿になって復活したようです。地芝居も江戸時代からで、大鹿歌舞伎(大鹿村)、下條歌舞伎(下條村)、平谷歌舞伎(平谷村)が継承され、人気を博しています。阿智村清内路などの煙火(はなび)も民俗芸能としての色彩をもち、これも元禄年間にこの地にもたらされています。
南信州の人々は、このように歴史の流れのなかでいくつもの芸能を受け入れ、それを在地の民俗芸能として育み、今に伝えています。これらを一つ一つ見ていくと、そこには庶民がもつ新たな文化を創造する力や情熱があるのがわかります。
<参考資料>

- 小川直之
- 國學院大學文学部教授