民俗芸能の人形芝居

日本は人形芝居の宝庫です。人形は、糸操り人形、指人形、串人形、からくり人形、車人形などいろいろな人形・遣い方があり、一人で遣ったり、二人で遣ったり、三人で遣う人形もあります。更に音楽や物語も多彩で、数の多さだけではなく、多様性が日本の人形芝居の特徴と言えるでしょう。
中でも最も伝承の多い人形芝居は、江戸時代に完成した義太夫節(ぎだゆうぶし)で語られる三人遣(づか)いの人形浄瑠璃(じょうるり)です。今は人形浄瑠璃文楽とも呼ばれています。18世紀に大坂の竹本座・豊竹座において今に残る名作が生まれ三人遣いの遣い方も工夫されて全盛期を迎えますが、初演直後から、各地を巡業する淡路人形座などによって伝えられていきました。現在は地名などを冠して○○人形芝居、○○人形浄瑠璃、○○文楽などの名称で、地域の祭りや行事の中で演じられています。
ここでは人形のかしらに注目し、伝存するかしらをいくつか取り上げ、時間軸に沿って見ながら人形芝居の歴史と地域性などを考えていきましょう。
長野県では伊那(いな)の人形芝居として、黒田人形、今田人形、早稲田人形が受け継がれています。黒田人形は地元の諏訪神社の春の祭礼において、天保11年(1840)再建の人形専用舞台で奉納上演します。黒田人形は100点を超えるかしらを所有していますが、なかに元文2年(1737)と書かれた老け女形(ふけおやま)のかしらがあります。確認されているなかで、最も古いかしらです。「山城太野村竹本松穂作」とも書かれているところみると、製作者は村人かと思われます。
岐阜県加茂郡七宗町神淵葉津(ひちそうちょうかぶちはづ)に葉津(はづ)文楽の58点の人形が残っていました。伝承は途絶えていますが、22点には元号・製作者の名前、地名がありました。最も古いものは安永2年(1773)で、文政2年(1819)まで続きます。たいへん珍しいことですが、製作用具も残っていてその土地の人物、塚本和吉によって製作されたことがわかります。和吉は40代、50代、60代を除いて、70代、80代と製作を続け、70代以降は年齢も記すようになります。人形に長寿・延命の願いが込められているのではないでしょうか。塚本家は代々年寄役を務め、苗字・帯刀を許された家柄でした。安永2年の葉津文楽のかしらは、先の黒田人形の老け女形、愛知県豊田市稲武(いなぶ)町小田木(おだぎ)人形の宝暦2年(1752)の検非違使(けんびし)のかしらに次いで3番目に古いかしらです。
元文から安永の頃の資料は多くありませんが、それぞれの土地で製作され、独特な表情のかしらであることが特色といえます。

兵庫県淡路島には18世紀中頃40ほどの人形座があり、徐々に減ってはいきますが、近代に至るまで西日本を中心に広く巡業していました。年間を通して興行に出ていた座もあったようです。その痕跡(淡路の人形遣いの来歴・かしらなど)は、各地に残り、淡路の人形座が果たした役割の大きさを強く感じます。
隣接する阿波(あわ)人形浄瑠璃は、淡路の影響を強く受けて成立しました。阿波も淡路も野外舞台において目立つ、大型のかしらで演じます。阿波・淡路で用いる大型のかしらは角目(かどめ)、剣別師(けんべっし)、寄年(よりと)など独特の名称があります。阿波は阿波木偶(あわでこ)と呼ばれる大型のかしらの製作でも知られています。代表的な人形細工人に、小説や映画に取り上げられて有名になった初代天狗屋久吉がいますが、「天狗久(てんぐひさ)」は昭和まで三代にわたり継承されました。戦後、文楽人形のかしらの製作に力を注いだ大江巳之助(おおえみのすけ)も阿波の人形細工人でした。阿波人形浄瑠璃の地元には人形製作の伝統が今も受け継がれています。

東の人形細工人に駿府(すんぷ)横田町の人形屋長兵衛がいました。江戸時代後期の文化頃から万延(まんえん)まで三代にわたるかしらが40点ほど、伊豆仁科の佐波(さわ)神社、伊勢志摩の安乗(あのり)人形芝居などに残っています。
阿波・淡路のかしらや駿府人形屋長兵衛のかしらを見ると、作風は違いますが類型化が認められます。以前は1点ものであったかしらが江戸時代後期には類型化し、人形屋とか工房で量産されるようになったのです。この時期、長兵衛のような職人の存在が他にも確認でき、各地の人形芝居の盛況ぶりが伺われます。
相模人形芝居は、神奈川県の旧相模国地域の人形芝居で現在、長谷・林・下中・前鳥・足柄の各座が活動しています。文化文政頃から幕末にかけて地元の若者等によって行われていましたが、近代には東京のプロの人形遣いである西川伊左衛門、吉田冠十郎が大きく関わった形跡が散見されます。西川の焼き印のある人形・手・修繕した衣裳、冠十郎の墨書のあるかしらがそれで、技芸だけではなく用具整備を含め、総合的な指導にあたっていたことがわかります。伊左衛門・冠十郎のように、人形遣いがかしらを自作することはよくあることでした。伊左衛門は小田原の小竹(おだけ)に移り住み、下中座をはじめ、長谷・林・前鳥各座でも指導し、相模人形芝居中興の祖と言われました。他方、来訪した大阪の人形遣いにも技芸を習い、祭礼での奉納や娯楽として上演するために技芸を磨きました。人々にとっては演じることも楽しみであり、技芸の研鑚(けんさん)に熱中する人は少なくなかったようです。各地の人形芝居はいずれも、大坂や江戸(東京)、淡路や近隣の人形浄瑠璃関係者と交流しながら、現在まで技芸を受け継いできました。
かしらは、各地の人形芝居の歴史と特色を物語るものでもあるのです。
- 大谷津 早苗
- 昭和女子大学人間文化学部教授