人形浄瑠璃 文楽 BUNRAKU

作品

主な作者

人形浄瑠璃の戯曲(ぎきょく:演劇のために書かれた台本や作品)を書く人を「浄瑠璃作者」といいます。近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が活躍した頃は、1つの作品を1人で書いていましたが、近松没後には、浄瑠璃の各段をより劇的に構成する方法の1つとして、複数の作者が分担して執筆する方法がとられるようになりました。これを「合作(がっさく)」といい、作者たちをまとめるリーダーを「立作者(たてさくしゃ)」とよびました。

成立期の作者

近松門左衛門ちかまつもんざえもん 生没年:承応2年(1653)~享保9年(1724)

日本文学史を代表する劇作家。貞享2年(1685)に初代竹本義太夫(たけもとぎだゆう)のために書いた『出世景清(しゅっせかげきよ)』でその地位を不動のものにし、元禄16年(1703)に『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』が大当りした後、宝永3年(1706)に京から大坂へ移住して浄瑠璃執筆に専念します。

紀海音きのかいおん 生没年:寛文3年(1663)~寛保2年(1742)

豊竹座の浄瑠璃作者。初代豊竹若太夫(とよたけわかたゆう)に招かれて座付作者となり、『お染久松袂の白しぼり(おそめひさまつたもとのしらしぼり)』宝永7年(1710)など、50余の作品を書きました。その作風は、理知的・叙事的などと言われています。

全盛期の作者

初代竹田出雲たけだいずも 生没年:生年不詳~延享4年(1747)

竹本座の浄瑠璃作者。興行師としての才に恵まれ、宝永2年(1705)に竹本座の座本(ざもと:興行主)となり、合作(がっさく)制を進めるなど、人形浄瑠璃の黄金期を築きました。作者としても『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』(享保19年[1734])などを書きました。

文耕堂ぶんこうどう 生没年:不詳

竹本座の浄瑠璃作者。松田和吉(まつだわきち)の名で竹本座で作者となるも後に退座。復座後は文耕堂と改名し、立作者として近松没後の竹本座を支えました。紀海音、初代竹田出雲、並木宗輔(千柳)とともに、浄瑠璃作者の四天王と称されました。

三好松洛みよししょうらく 生没年:元禄8年(1695)~明和8年(1771)

竹本座の浄瑠璃作者。作者として、30年以上もの間、三大名作をはじめとする50余作品に名を連ね、人形浄瑠璃の黄金期を支える1人として活躍しました。晩年は、若い作者たちの合作に名を連ねながら指導するなど、竹本座の古老として慕われていたといいます。

2代目竹田出雲たけだいずも 生没年:元禄4年(1691)~宝暦6年(1756)

竹本座の浄瑠璃作者。初代の子で、初名は竹田小出雲(たけだこいずも)。父の死により、2代目出雲を襲名し、竹本座の座本となります。三大名作をはじめとする、数々の名作の作者に名を連ねています。また父譲りの経営の才にも恵まれ、竹本座を隆盛に導きました。

田中千柳たなかせんりゅう 生没年:不詳

豊竹座の浄瑠璃作者。大当りした『北条時頼記(ほうじょうじらいき)』など、西沢一風と合作して9編を作りましたが、これらは千柳の力量によるところが大きいとされています。享保10年(1725)、不入りの責任を取り、作者を引退しました。

西沢一風にしざわいっぷう 生没年:寛文5年(1665)~享保16年(1731)

豊竹座の浄瑠璃作者。紀海音引退を受けて筆を執り、『北条時頼記』(享保11年[1726])が大当りしました。翌年に刊行した『今昔操年代記(いまむかしあやつりねんだいき)』は、浄瑠璃史研究の貴重な資料となっています。

並木宗輔なみきそうすけ 生没年:元禄8年(1695)~宝暦元年(1751)

豊竹座で並木宗助(後に宗輔と改名)として名を連ねた初作の『北条時頼記』で地位を確立し、豊竹座の基礎を築きました。後に移った竹本座では並木千柳(せんりゅう)と称し、三大名作をはじめ、人形浄瑠璃最盛期を代表する作者として、数多くの名作を生みだしました。

過渡期の作者

近松半二ちかまつはんじ 生没年:享保10年(1725)~天明3年(1783:または天明7年[1787])

竹本座の浄瑠璃作者。2代目竹田出雲の元で浄瑠璃作者を志し、近松門左衛門に私淑(ししゅく)して「近松」と名乗りました。執筆した数多くの名作により、衰退期にあった人形浄瑠璃に一時の勢いをもたらしました。またその作品は歌舞伎でも多く演じられています。

菅専助すがせんすけ 生没年:不詳

太夫を志して豊竹座の2代目豊竹此太夫(とよたけこのたゆう)に入門しますが、明和4年(1767)に此太夫が興した豊竹此吉座に移り、作者となりました。同年に『染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)』で大当りをとった後も書き続け、座の最盛期を築きました。

福内鬼外ふくちきがい 生没年:享保13年(1728)~安永8年(1779)

江戸の浄瑠璃作者。「エレキテル」で有名な平賀源内(ひらがげんない)の作者名。江戸へ上った人形遣いの吉田文三郎(よしだぶんざぶろう)らに依頼されて書いた『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』(明和7年[1770])が大好評を得ました。江戸の浄瑠璃を創設し、隆盛の基礎を築きました。

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