文化デジタルライブラリー

人形浄瑠璃 文楽 BUNRAKU

歴史

過渡期

江戸の人形浄瑠璃

豊竹肥前座の人形遣い
『豊竹肥前座 乱菊枕慈童』
国立劇場所蔵(NA0076610000)

人形浄瑠璃は、江戸でも人気を集めました。享保4年(1719)に、大坂の人形遣い・辰松八郎兵衛(たつまつはちろべえ)が江戸で辰松座を、元文3年(1738)には豊竹肥前掾(とよたけひぜんのじょう)も肥前座を興しました。宝暦頃(1751~1764年)には、大坂から数多くの太夫・三味線弾きや人形遣いが江戸へ向かいました。
江戸の作者による新作浄瑠璃も登場し、福内鬼外(ふくちきがい)作『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』や『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』などの人気演目が生まれました。

用語解説

福内鬼外

享保13年(1728)~安永8年(1779)。平賀源内(ひらがげんない)の浄瑠璃作者名。

『神霊矢口渡』

作者:福内鬼外
明和7年(1770)、江戸・外記座(げきざ)で初演された時代物。『太平記(たいへいき)』にある新田義興(にったよしおき)が、武蔵国矢口渡で謀殺されたこと、及びその後日譚(ごじつたん)である義興の弟・義峰(よしみね)や残された家臣たちの苦心談を、新田神社(現在の東京都大田区)の縁起に結びつけました。義峰に一目惚れするお舟(おふね)を描いた、「頓兵衛内(とんべえうち)の段」が有名。

『加賀見山旧錦絵』

作者:容楊黛(ようようたい)
天明2年(1782)、江戸・外記座で初演された時代物。享保2年(1717)、松平周防守(まつだいらすおうのかみ)の邸内で、局・沢野(さわの)と側女(そばめ)・みちが争い、みちが自害したので、その下女が沢野を討って恨みを晴らした事件を脚色。奈河亀輔(ながわかめすけ)作の歌舞伎『加賀見山廓写本(かがみやまさとのききがき)』から加賀騒動の話を抜き出してまとめたものです。中老(ちゅうろう)・尾上(おのえ)が局・岩藤(いわふじ)に辱められる「草履打(ぞうりうち)の段」、尾上が下女・お初(おはつ)の忠告もむなしく自害してしまう「長局(ながつぼね)の段」が有名。

『伽羅先代萩』

作者:松貫四(まつかんし)ほか
天明5年(1785)、江戸・結城座(ゆうきざ)で初演された時代物。奈河亀輔作の歌舞伎『伽羅先代萩』と桜田治助(さくらだじすけ)作の『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』を参考に作られました。万治・寛文年間(1658〜1673)に起きた伊達騒動に取材。伊達綱宗(だてつなむね)が、吉原の傾城(けいせい)・高尾(たかお)に溺れ、隠居させられた事件がもとになっています。幼い主君を守るため、我が子を犠牲にする乳母・政岡(まさおか)を描いた「御殿(ごてん)の段」が有名。

人形浄瑠璃人気のかげり

『本朝廿四孝』の各場面を絵と文章で解説した小冊子
浄瑠璃絵尽『本朝廿四孝』
国立文楽劇場所蔵

18世紀後半に入り、竹本座では近松半二(ちかまつはんじ)が『奥州安達原(おうしゅうあだちがはら)』『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』など名作を手掛け、豊竹座でも『祇園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)』が3年越しの大当りとなりましたが、歌舞伎の人気が盛り返してきたこともあり、人形浄瑠璃の人気は徐々に失われていきます。豊竹座は明和2年(1765)、竹本座は明和4年(1767)に道頓堀から撤退し、両座は大坂各地を転々としながら興行を続けました。

用語解説

『奥州安達原』

作者:近松半二、竹本三郎兵衛(たけもとさぶろべえ)ほか
宝暦12年(1762)、竹本座で初演された時代物。前九年の役(ぜんくねんのえき)で敗れた奥州の安倍頼時(あべのよりとき)の遺児・貞任(さだとう)と宗任(むねとう)の兄弟が再挙して源義家(みなもとのよしいえ)を討とうと画策する間に起こる安倍家の悲劇や、兄弟と義家の対立の様を描きます。

『本朝廿四孝』

作者:近松半二、竹本三郎兵衛ほか
明和3年(1766)、竹本座で初演された時代物。越後の上杉家と甲斐の武田家は不仲を装い、両家の子供や家臣を巻き込んだ大掛りな芝居をうつことで、将軍を殺し天下横領を謀る斎藤道三(さいとうどうさん)、そして北条氏時(ほうじょううじとき)と村上義清(むらかみよしきよ)を滅ぼします。武田信玄(たけだしんげん)の嫡子・勝頼(かつより)と上杉謙信(うえすぎけんしん)の息女・八重垣姫(やえがきひめ)は受難の末に婚礼を挙げます。

『祇園祭礼信仰記』

作者:中邑阿契(なかむらあけい)、浅田一鳥(あさだいっちょう)ほか
宝暦7年(1757)、豊竹座で初演された時代物。足利将軍に対する松永大膳(まつながだいぜん:史実の松永弾正[まつながだんじょう])の反逆を打ち砕く、小田春長(おだはるなが:史実の織田信長[おだのぶなが])と此下東吉(このしたとうきち:史実の木下藤吉郎[きのしたとうきちろう]、のちの豊臣秀吉[とよとみひでよし])の活躍を描きます。

「風」の変化

両床の様子
『妹背山婦女庭訓』妹山背山の段
平成28年(2016)4月
国立文楽劇場 第142回文楽公演(YRD0100142500118)

18世紀中頃までは、竹本座の「西風(にしふう)」、豊竹座の「東風(ひがしふう)」のように、座による語り口の違いを「風(ふう)」とよんでいました。しかしいわゆる「忠臣蔵騒動」をきっかけに両座の太夫の入れ替りが起き、語り方が混交したため、「風」は個々の太夫の語り口を指すようになりました。基本的に初演時の太夫の名前を冠して「染太夫風(そめたゆうふう)」「春太夫風(はるたゆうふう)」「駒太夫風(こまたゆうふう)」のようによばれます。『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の「妹山背山(いもやませやま)の段」は、竹本染太夫、竹本春太夫が舞台左右に分かれて演奏した画期的な演出で知られます。

用語解説

忠臣蔵騒動

竹本座での『仮名手本忠臣蔵』初演時に、竹本此太夫(たけもとこのたゆう)と吉田文三郎(よしだぶんざぶろう)の意見が対立し、此太夫をはじめとする数名の太夫が退座して、豊竹座へ移りました。この通称「忠臣蔵騒動」は、座本(ざもと:興行主)が太夫よりも人形を重視したことや、「西風」「東風」というそれまでの座ごとの語りの特性が失われるなど、のちに大きな影響を及ぼしました。

『妹背山婦女庭訓』

作者:近松半二ほか
明和8年(1771)、竹本座で初演された時代物。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が蘇我入鹿(そがのいるか)を滅ぼした史実に、家同士の不和と入鹿の横暴に翻弄される久我之助(こがのすけ)と雛鳥(ひなどり)の一途な恋、酒屋の娘・お三輪(おみわ)の悲恋を描きます。大化改新の政変を背景に、三輪山の伝説などを織り込んだスケールの大きな作品。

“文楽”の名のルーツ

松嶋文楽座開場の際の番付。初めて「文楽座」と座名を掲げて興行を行いました。
松島千代崎町芝居 文楽座 明治5年(1872)1月番付
国立文楽劇場所蔵

19世紀初頭、興行師・初代植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)が大坂の高津(こうづ)に浄瑠璃小屋を開き、衰退しかけていた人形浄瑠璃を活気づけました。その後、稲荷神社(現在の難波[なんば]神社)境内へ場所を移し、さらに明治5年(1872)大阪の松島へ芝居小屋を移転した際に初めて文楽座と名乗りました。現在、人形浄瑠璃が「文楽」とよばれるのは、この「文楽座」に由来します。明治17年(1884)御霊(ごりょう)神社境内へ移転し、明治42年(1909)、松竹合名会社に譲渡するまで文楽座は植村家が運営していました。

用語解説

初代植村文楽軒

宝暦元年(1751)~文化7年(1810)。淡路(現在の兵庫県)出身で、本名は正井与兵衛(まさいよへえ)。「文楽軒」は本人の素人義太夫(しろうとぎだゆう)の名前です。

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