文楽編 仮名手本忠臣蔵 Kanadehon Chushingura

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よもやま 江戸の火事

忠臣蔵と火事の関係

赤穂藩の初代藩主が消防に力を入れていたのをはじめ、浅野家は火事・消防と縁の深い家柄でした。討ち入りの際に浪士たちが身につけた火事装束にも、理由がありました

浅野家と火消大名

赤穂浅野家は、代々消防に力を入れていました。初代の浅野長直(あさのながなお)は防火・消火の研究に熱心で、大火の際には自らが陣頭指揮をとり、燃えている家屋の上へ飛び乗って消火したといいます。孫の長矩(ながのり:内匠頭[たくみのかみ])も、江戸在留中の元禄4年(1691年)に本所[東京都墨田区の一地区]の火消大名に任命されています。元禄11年(1698年)の江戸の大火で吉良上野介(きらこうずけのすけ)の邸が全焼しましたが、このとき消防の指揮をとっていたのが長矩でした。邸を守りきれなかったことを吉良が恨みに思い、後に刃傷事件を起こす対立につながったのではとする説もあります。


討ち入りが火事装束だったわけ

『仮名手本忠臣蔵』十一段目
葛飾北斎 画
(江戸東京博物館所蔵)

『堀部安兵衛着用 鎖頭巾・鎖帷子』
堀部安兵衛が使用した装束
(赤穂大石神社所蔵)

赤穂浪士の討ち入り装束といえば、誰もが袖に山形模様[雁木模様(がんぎもよう)]の揃いの羽織を思い浮かべるでしょう。しかしあの装束は『仮名手本忠臣蔵』の創作であり、実際は、頭巾に兜(かぶと)、鎖帷子(くさりかたびら)を着込み、上に黒の小袖、火事装束に似せた黒ずくめであったようです。

火事装束に似せたのには訳があります。「火消の姿」「火の廻りの役人」は、単なる消防士ではなく、公権力の警察機能そのものの象徴で、禁中・公家・武家の門内へ案内なしに出入りできました。この姿であれば、吉良家への深夜の強制捜査・家宅捜索とみなされ、見て見ぬふりをされたのです。

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