文楽編 仮名手本忠臣蔵 Kanadehon Chushingura

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よもやま 赤穂藩と吉良家

吉良上野介の実像

「忠臣蔵」にまつわる数々の作品で、すっかり悪役のイメージが定着している吉良上野介ですが、領地ではむしろ善政を行った名君として、領民に親しまれていたようです

諸大名からは欲深い人物とされていた

『吉良義央木像』
(華蔵寺所蔵)

吉良氏は、室町幕府将軍足利一族に連なる名家です。戦国期に松平氏(徳川氏)と密接な関係を築き、江戸幕府で儀式・典礼を司る高家のひとつとなりました。

寛永18年(1641年)、吉良家に生まれた吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、「高家肝煎(きもいり:最高責任者)」として、幕府と朝廷の間を取り持つ職にありました。大名たちに横柄な態度で接することが多く、むやみに人の物をせびるような言動もあったと伝えられています。

「赤穂事件」を記した『江赤見聞記(こうせきけんもんき)』には、以前饗応役を務めた人物から浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、上野介は欲の深い人だから進物を送ったほうがいいと助言された際、「お役目が無事終わればいくらも進物を送るが、前もって何度も送るのはどうかと思う」と返答したという記録が残されています。

諸大名からの評判は、必ずしもよくなかったといえるでしょう。


地元では名君として慕われる

三河国幡豆郡吉良庄(みかわのくにはずぐんきらしょう:現在の愛知県西尾市)の領地では逆に、水害を防ぐために堤を築かせ、新田開発に力を入れるなどの善政をしいた名君とされています。しかし、高家のような旗本は、一部を除いて参勤交代がなく、江戸に常住して領地は代官に任せるのが一般的でした。そのため、上野介も領地を訪れた形跡はほとんどなく、築堤・新田開発の指揮をはじめ、領民に接する機会はなかったと思われます。

吉良家の菩提寺である華蔵寺(けぞうじ)に梵鐘(ぼんしょう)や経堂を寄進するなど、信心深い人物であり、茶の湯や和歌をたしなむ風流人でもあったようです。

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