文楽編 仮名手本忠臣蔵 Kanadehon Chushingura

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よもやま 赤穂藩と吉良家

赤穂藩とは

赤穂藩は、池田家に始まり、浅野家の時代に塩田開発で塩の名産地として成功しました。しかし、第3代藩主の浅野長矩は何度も饗応役を務めたため、出費も多かったようです

塩で潤う藩の財政

赤穂城下の町絵図(元禄頃)
(赤穂市立歴史博物館所蔵)

播州赤穂藩[現在の兵庫県赤穂市ほか]の基礎は、姫路藩主・池田輝政(いけだてるまさ)の5男で初代藩主の政綱(まさつな)によって作られました。

正保2年(1645年)に、池田家がお取り潰しとなり、芸州広島藩[現在の広島県]浅野家を本家とする浅野長直(あさのながなお)が赤穂藩主となります。

赤穂城の築城に加え、他藩に比べて藩士の数が多かった赤穂藩の出費は多額でした。そこで長直は、池田氏の時代から始まっていた塩田の整備に力を入れます。浅野氏が赤穂に入った頃、幕府から正式に与えられた石高は5万3000石でした。しかし元禄頃には、塩田開発と塩業政策の成功により、実質上7万~8万石に相当する財力があったといわれています。


饗応役をたびたび務めた第3代藩主・長矩

『浅野内匠頭公画像』
(花岳寺所蔵)

戦のない時代、大名が官位を上げるには、幕府の行う大規模工事や、典礼・儀式の費用を負担することで自家をアピールする必要がありました。費用のかさむ「饗応役(きょうおうやく)」を務めることもその一つです。長直の孫にあたる浅野長矩(あさのながのり:内匠頭[たくみのかみ])は2度の日光奉幣使饗応役のほか、天和2年(1682年)に朝鮮通信使饗応役を務めています。翌年には最初の勅使饗応役を、元禄14年(1701年)に2度目の勅使饗応役を命じられました。この2度目の饗応役の時に「刃傷事件」が起こり、浅野家は断絶の運命をたどったのです。

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