江戸時代、武士の身分と格式には決まりがあり、大きく分けて石高1万石以上を「大名」、1万石未満を「直参(じきさん)」と呼びました。
大名は、今でいう地方自治体の長のような立場で、尾張・水戸・紀州の徳川御三家に代表される「親藩(しんぱん)」、主に関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた「譜代大名(ふだいだいみょう)」、それ以外の「外様大名(とざまだいみょう)」に分けられていました。それらの大名に仕える家臣が「藩士(はんし)」です。
「赤穂事件」の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、5万3000石播州赤穂(ばんしゅうあこう:現在の兵庫県赤穂市ほか)藩主の外様大名です。各大名家の領地は、あくまでも将軍家の領地を委託されて統治しているという考え方だったため、幕府による改易(かいえき:領地や城の没収)や転封(てんぽう:別な領地に移すこと)もしばしば行われました。
直参は将軍家直属の家臣で、いわば国家公務員の立場でした。直参のうち将軍に御目見(おめみえ:直接会うこと)できる武士を「旗本(はたもと)」、御目見の資格のない者を「御家人(ごけにん)」と称しました。
吉良上野介(きらこうずけのすけ)は4200石の旗本という身分でした。ただし儀式・典礼を司る別格の家柄だったため、与えられていた官位は浅野内匠頭の従五位下諸大夫(じゅごいげしょだいぶ)に対し、上野介が従四位上少将(じゅしいじょうしょうしょう)で格上でした。石高が必ずしも身分の上下でないこともあったのです。