文楽編 仮名手本忠臣蔵 Kanadehon Chushingura

  • サイトマップ
  • クレジット
  • このサイトについて
  • 索引
  • English
  • 早わかり
  • 背景を知る
  • ひもとく
  • ひろがり
  • よもやま
前のページにもどる

背景を知る 創作とその時代

浄瑠璃界と劇界 浄瑠璃と歌舞伎の関係

歌舞伎が人形浄瑠璃の人気作品を台本とすることが多かったいっぽうで、人形浄瑠璃のほうでも、歌舞伎のオリジナルの場面や演出を取り入れることがありました。古くから、両者は互いに刺激を与え合えあっていたようです。

『仮名手本忠臣蔵』辻番付
寛延2年(1749年)2月 森田座
(早稲田大学演劇博物館所蔵)

役者という優れた個人の力量に負うところが多い歌舞伎は、深みのある作品を求め、緻密な劇構造をもつ人形浄瑠璃の戯曲を、しばしば借用していました。人形浄瑠璃から歌舞伎化した作品は、義太夫狂言・丸本狂言とよばれ、現在でも上演されています。

『仮名手本忠臣蔵』は初演直後、大坂道頓堀の嵐三五郎座で歌舞伎化されています。当時、上方の歌舞伎は、人形浄瑠璃におされて、最も苦しい時期にありました。歌舞伎の素早い対応は、観客を振り向かせるための作戦だったといえるでしょう。

歌舞伎が徐々に人形浄瑠璃を圧倒し、オリジナリティあふれる演目を生み出すのは、明和期以降(1764年~)を待たなければなりません。

人形浄瑠璃のほうでも、歌舞伎で評判になった場面や趣向を取り入れています。『仮名手本忠臣蔵』「七段目」は、延享4年(1747年)初演の歌舞伎『大矢数四十七本』(おおやかずしじゅうしちほん)の初代沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)の芸を生かした演出といわれています。

ページの先頭に戻る