大坂・竹本座座本[興行主・経営者]で浄瑠璃作者、初代竹田出雲(たけだいずも)の子。はじめ竹田小出雲と名乗り、浄瑠璃作者として合作に加わるようになりました。並木千柳(なみきせんりゅう:宗輔[そうすけ])入座後には、著名な作品の合作者として名を連ねます。父・竹田出雲[初代出雲]の死後、2代目出雲[親方出雲]を襲名しました。寛延元年(1748年)『仮名手本忠臣蔵』興行中に、太夫・竹本此太夫(たけもとこのたゆう)と人形遣い・吉田文三郎(よしだぶんざぶろう)とが対立した件で、座本としての興行的配慮から文三郎を擁護したため、此太夫一派が豊竹座に移籍してしまうという事件がありました。並木千柳が豊竹座に去り、出雲は竹田外記(たけだげき)と名乗りますが、以降、成功を収める作品は残しませんでした。
真言宗の僧侶であったといわれます。還俗後、千前軒(せんぜんけん:初代竹田出雲[たけだいずも])の門人となりました。元文元年(1736年:享保21年)『赤松円心緑陣幕(あかまつえんしんみどりのじんまく)』を文耕堂(ぶんこうどう)と合作したのが初作。明和8年(1771年)12月、近松半二(ちかまつはんじ)らと合作した『桜御殿五十三駅(さくらごてんごじゅうさんつぎ)』に「後見(こうけん)」として名が見えますが、その年の1月『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』には「後見行年(ぎょうねん:享年の意)七十六歳三好松洛」とあるので、それ以前に没したと考えられます。30余年の浄瑠璃作者としての活動で、合作者として、浄瑠璃史に残る名作の数々に携わりました。
青年期は、備後三原[現在の広島県三原市]で臨済宗の禅僧でした。のちに還俗し、享保11年(1726年)から元文5年(1740年)まで、大坂豊竹座の立作者を務めました。この時期に執筆された、『尊氏将軍二代鑑(たかうじしょうぐんにだいかがみ)』『忠臣金短冊(ちゅうしんこがねのたんざく)』『狭夜衣鴛鴦剣翅(さよごろもおしどりのつるぎば)』は、『仮名手本忠臣蔵』の先行作とみなされています。
寛保2年(1742年)から歌舞伎作者に転向していましたが、延享2年(1745年)には、浄瑠璃作者として大坂竹本座に入座します。並木千柳という名で、三大名作『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』『仮名手本忠臣蔵』の立作者を務めました。その後、寛延4年(1751年:宝暦元年)に、豊竹座に復帰して並木宗輔(そうすけ)と名乗り、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の三段目が絶筆となりました。