文楽編 仮名手本忠臣蔵 Kanadehon Chushingura

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背景を知る 創作とその時代

コラム 人形遣いと太夫の衝突

『仮名手本忠臣蔵』初演の時、語りを担当する太夫と人形遣いが衝突し、太夫が座を離れてしまうという事件が起こりました。この頃、作品における人形の占める比重は増えてきており、人気の人形遣いは発言力も大きかったのです。

『滑稽本集』より吉田文三郎
日本名著全集刊行会 編
(早稲田大学演劇博物館所蔵)

寛延元年(1748年)『仮名手本忠臣蔵』初演時に、人形浄瑠璃史上、通称「忠臣蔵事件[忠臣蔵騒動]」と呼ばれる人形遣いと太夫の衝突が起こりました。

当時、大坂・竹本座の中心的人形遣い・吉田文三郎(よしだぶんざぶろう)が、九段目を語る竹本此太夫(たけもとこのたゆう)に、人形を遣うのに都合がよくなるように語ってほしいと、注文をつけ、争いとなりました。両者ともに立場やプライドもあって譲らず、裁定は座本[興行主・経営者]2代目竹田出雲(たけだいずも:竹田小出雲)に委ねられました。出雲は、経営者として当時人気絶頂の文三郎をおろすことができず、此太夫を交替させることにしました。このため、此太夫は数名の太夫を引き連れ、豊竹座に移りました。一方、豊竹座からも数名の太夫が竹本座に移りました。こうして、両座の太夫が入れ替わったため、竹本座の質実剛健で地味な語りが特色の「西風(にしふう)」と、豊竹座の華麗で歌うような節回し「東風(ひがしふう)」が混乱しました。

太夫をしのぐ発言力を持った文三郎が起こした「忠臣蔵事件」は、この時期の人形浄瑠璃における人形の占める比重の大きさを示しているようです。

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