赤穂藩浪人たちによる討ち入りをどう扱うべきか、忠義を奨励していた当時の幕府や儒学者のなかで、意見は大きく分かれます。
義挙(ぎきょ:正義のための行い)として浪人たちを助命すべきだとする声がありました。逆に、江戸城内の刃傷(にんじょう:刀で人を傷つけること)に対する幕府の裁定を不服とし、許可を得ないまま徒党を組んで討ち入ることは死罪に値する、という者もいました。1ヵ月以上に及ぶ長い議論を重ねたすえ、浪人たちは切腹を命じられることになります。
一方でこの討ち入りは、社会は安定してきたものの、儒教的倫理を背景とした法令などの乱発により閉塞感をいだいていた、江戸庶民の心をとらえました。
主家を失い、世間に対する体面や名誉を保つためには、吉良を討つ以外に方法がない赤穂の浪人たち。武士の一分(いちぶん:面目・責任)を全うする行為を、世間は大いに期待したようです。
浪人たちが討ち入りを決行したとき、その行いは武士として「義[人として守るべき道]」であると、世間の喝采を浴びました。赤穂藩浪人は「赤穂義士」と呼ばれ、賞賛されました。