文楽編 仮名手本忠臣蔵 Kanadehon Chushingura

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背景を知る 史実とその時代

仇討ちと武士道 仇討ちという仕組み

江戸城内で起きた争いがもとで、主君は一方的に重い罰を受け浪人となった浅野家の家臣たちが、おかまいなしとなった吉良方を殺傷した「赤穂事件」。現代なら明らかに犯罪に問われるはずの復讐が、なぜ江戸時代には可能だったのでしょうか。

喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)と仇討ち

『武家義理物語』巻2の4
「我が子をうち替へ手」
井原西鶴 著
体面や面目に生きる武士の姿を、町人の視点から描く。仇討ちを賛美するのではなく、討つ者討たれる者の苦悩を浮き彫りにする
(国立国会図書館所蔵)

父母や兄など、自分よりも前の世代の親族を殺されたとき、相手に復讐する慣習は、敵討ち(かたきうち)や仇討ち(あだうち)と呼ばれます。古くから行われてきましたが、「喧嘩両成敗」を原則として紛争を処理した江戸時代には、当事者の不合理感を補う制度として、法の上でも認められていました。

ただ、同じ親族であっても、妻子や弟・妹が殺害された場合には、基本的に仇討ちは認められませんでした。「赤穂事件」のように、血縁関係のない主君の仇討ちが行われるのは、ごく稀なことだったのです。

武士の意地や面目を立てる

武士が仇討ちをする場合は、まず主君の許可を得て免状を受ける必要がありました。主君は幕府の三奉行[寺社・勘定・町]に届けを出し、奉行所は所定の帳簿に記載して、その写しを仇討ちをする者に渡します。許可なしに仇討ちをすれば、殺人罪に問われることもありました。

また、仇討ちをした相手へさらに復讐することは禁止される一方、相手側には正当防衛[返り討ち]をすることも認められていました。復讐することよりも、武士の意地や面目を立てることを重視した制度だったようです。

江戸時代の仇討ちとしては、129件が伝えられ、多くの場合、武士の一分(いちぶん:面目・責任)を示す行為として賞賛されたようです。しかし、記録に残されないまま仇討ちに一生を捧げ、目的を達成することなく生涯を終えた討手の数は、無数であったと思われます。

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