
父母や兄など、自分よりも前の世代の親族を殺されたとき、相手に復讐する慣習は、敵討ち(かたきうち)や仇討ち(あだうち)と呼ばれます。古くから行われてきましたが、「喧嘩両成敗」を原則として紛争を処理した江戸時代には、当事者の不合理感を補う制度として、法の上でも認められていました。
ただ、同じ親族であっても、妻子や弟・妹が殺害された場合には、基本的に仇討ちは認められませんでした。「赤穂事件」のように、血縁関係のない主君の仇討ちが行われるのは、ごく稀なことだったのです。
武士が仇討ちをする場合は、まず主君の許可を得て免状を受ける必要がありました。主君は幕府の三奉行[寺社・勘定・町]に届けを出し、奉行所は所定の帳簿に記載して、その写しを仇討ちをする者に渡します。許可なしに仇討ちをすれば、殺人罪に問われることもありました。
また、仇討ちをした相手へさらに復讐することは禁止される一方、相手側には正当防衛[返り討ち]をすることも認められていました。復讐することよりも、武士の意地や面目を立てることを重視した制度だったようです。
江戸時代の仇討ちとしては、129件が伝えられ、多くの場合、武士の一分(いちぶん:面目・責任)を示す行為として賞賛されたようです。しかし、記録に残されないまま仇討ちに一生を捧げ、目的を達成することなく生涯を終えた討手の数は、無数であったと思われます。







