文楽編 仮名手本忠臣蔵 Kanadehon Chushingura

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背景を知る 史実とその時代

仇討ちと武士道 忠孝が支えた封建社会

鎌倉時代以降、武士が社会を統治した日本では「御恩と奉公」という主従関係が重視されてきました。徳川幕府によってこの主従をめぐる倫理観はさらに強化され、「忠」と「孝」を中心とした社会の規範が築かれていったのです。

「忠孝」と倫理観

『武家諸法度天和三年七月廿五日』
(早稲田大学図書館所蔵)

たとえば、武家を統制するために幕府が定めた法令「武家諸法度」の冒頭は、もともと「文武弓馬の道、もっぱらあいたしなむべき事」でした。しかし赤穂事件が起きた元禄期には、「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」という文言へ変わっています。武芸が重要だった社会から、「忠」や「孝」を重視し、礼儀による秩序を重んじる社会への移行が伺えます。

「忠・忠義」とは、主君に尽くすまごころ、「孝」とは、親によく従うこと。どちらも儒教の教えですが、幕府は「孝」よりも「忠」を強調し、武士たちの考え方にも影響を与えました。

また、幕府は同じ頃、武家以外に対しても、不忠不孝の者は厳重に処罰すると告知をしています。「忠孝」は、庶民にも課せられた倫理観だったのです。

武士道という考え方

『聖堂講釈図・寺子屋図』
儒教者が、湯島聖堂と併設された学舎で、旗本・御家人らに朱子学などを講義した
(東京大学史料編纂所所蔵)

この「忠義」を最上位に置く、武士階級の倫理観は、「武士道」として整備されました。禅宗や儒教などを思想的な裏づけとしながら、江戸時代に大成します。当時の儒学者・軍学者である山鹿素行(やまがそこう)は、主君・家臣ともに儒教倫理を基礎に置くべきだとする考えを唱えました。それは、封建社会の秩序を安定させるための、政治理念でもあったのです。

「赤穂事件」が起こったのは、5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)が治める元禄年間。商業資本が勃興するこの時期の武士たちは、すでに戦いを知らない世代でした。そのために、観念的な武士の理念が、かえって声高に唱えられたのではないでしょうか。

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