文楽編 仮名手本忠臣蔵 Kanadehon Chushingura

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背景を知る 史実とその時代

赤穂事件 討ち入りとその後

赤穂藩の浪人達が吉良上野介を殺害した行動は、仇討ちとして認められず、切腹が申し付けられました。しかし、浪人達の武士として筋を通した精神は、世間の喝采を浴び、後々まで語り継がれることになるのです。

浪人たちの処分

『義士切腹之図』
大石内蔵助の最期を描く。肥後熊本藩当主・細川綱利は、忠義を称賛し、切腹の日まで厚遇した
(公益財団法人永青文庫所蔵)

元禄15年(1702年)12月15日未明、赤穂藩浪人47人は吉良上野介(きらこうずけのすけ)邸へ討ち入りを決行し、吉良の首を取りました。幕府大目付へ届け出た赤穂藩浪人に対し、幕府は、処分決定まで、熊本藩細川家・伊予松山藩松平家・長門長府藩毛利家・三河岡崎藩水野家に、身柄を預けることを申し渡しました。

赤穂藩浪人の処分について、幕府は、浅野が一方的に吉良を殺そうとしたのであり、吉良が浅野を殺したわけではない。だから、吉良は浅野の敵ではない。主君の敵ではないのに、敵であると主張した、そうなると赤穂藩浪人の行動は、仇討ちではなく幕府が禁じる「徒党(ととう:同志の者が団結し非合法の武力的奇襲を行うこと)」と認定できる、との解釈を示し、切腹を命じました。

討ち入りという撰択

赤穂藩浪人には、「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい:喧嘩をした者は、両方とも同じように処罰する慣習)」が適用されず、主君だけが切腹となった処分への不公平感と主君の遺志を継ぐという使命感がありました。吉良が生きている限り、武士の常識では、不名誉な境遇に身をおくことになります。討ち入りの本質は、藩の名誉を回復し、自分たちの武士の面目を立て、武士としての筋を通すためには、命を捨てなければならないというところにありました。

人々は、それを義挙[人として守るべき行動]と呼び、討ち入りに参加した赤穂浪人が、困苦に耐え抜き本懐を遂げた不屈の精神を称えました。「赤穂事件」が「忠臣蔵」となって展開していく素地は整ったのです。

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