文楽編 仮名手本忠臣蔵 Kanadehon Chushingura

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背景を知る 史実とその時代

赤穂事件 幕府の裁定と波紋

「喧嘩両成敗」を原則に争いごとを処理した武家社会で、赤穂事件においては浅野内匠頭だけが切腹という重い罰を受け、吉良上野介は無罪でした。その不公平感が、討ち入りという行動への原動力となっていました。

事件の検証

『赤穂城請取 脇坂淡路守行列図』
城請取りに向かう播磨龍野藩主・脇坂淡路守安照の行列
(赤穂大石神社所蔵)

浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の刃傷事件を裁定する際、重点が置かれたのは、「吉良上野介(きらこうずけのすけ)は斬り付けられた時、脇差しに手をかけたか」ということでした。江戸時代は、「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい:喧嘩をした者は、両方とも同じように処罰すること)」が「天下の大法(てんかのたいほう:世間の厳しいおきて)」となっていましたから、喧嘩であれば双方ともに切腹です。ところが、上野介は手向いせず逃げただけだったので、「喧嘩両成敗」は適用されませんでした。内匠頭が叫んだ上野介への恨みは、検証されなかったのです。

幕府の厳しい裁定

5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)は、即日、内匠頭の切腹と赤穂浅野家の断絶を命じました。大名が即日切腹というのは異例で、慎重に吟味すべきであるとの意見もありました。綱吉の即座の決定は、勅使[天皇からの使者]・院使[上皇からの使者]への挨拶の日に、饗応役(きょうおうやく:接待役)が起こした不祥事への激しい怒りがあったといいます。

「喧嘩両成敗」の適用がなされなかった不公平感と主君の無念が、主君を失った赤穂藩士の精神と行動の支えとなっていきます。

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