将軍の居所である江戸城内[殿中]で、刀を抜くことは厳重に禁止され、重い処罰を受けることは容易に想像できます。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が刃傷事件をおこしたのは、大名が正装[礼装]で臨む重要な儀式の場でした。このため、ごく装飾的な「殿中差し」と呼ばれる短刀(ちいさがたな)を差しているだけでした。
殿中刃傷事件は、「赤穂事件」の他に例がないわけではありません。江戸時代264年間で7件あったといいます。「赤穂事件」が起こった5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の時代、貞享元年(1684年:「赤穂事件」より17年前)に、若年寄の稲葉石見守正休(いなばいわみのかみまさやす)が大老・堀田筑前守正俊(ほったちくぜんのかみまさとし)を殺害し、正休もその場で殺害された事件もありました。天明4年(1784年)に佐野善左衛門政言(さのぜんざえもんまさこと)が若年寄の田沼玄蕃頭意知(たぬまげんばのかみおきとも)を殺した事件など、いずれも世間を騒がせた大事件でした。
同じ殿中刃傷でも「赤穂事件」が取り立てて注目されたのは、他の事件がいずれも相手を殺害してその目的を一応達したのに対し、浅野内匠頭は吉良上野介(きらこうずけのすけ)にとどめをさすことができず、主君の無念を受けて、赤穂藩浪人たちが復讐を遂げたことが人々の共感を呼んだからではないでしょうか。