大衆芸能編 寄席

  • サイトマップ
  • クレジット
  • このサイトについて
  • 索引
  • 寄席早わかり
  • 寄席の芸能
  • 寄席の歴史
  • 寄席への招待
前のページにもどる

寄席の歴史

  • 芸能全体
  • 落語の歴史
  • 講談の歴史
  • 浪曲の歴史
  • 漫才の歴史
  • 太神楽の歴史
  • 奇術の歴史

落語の歴史

明治の新しい笑い

明治政府が寄席での演劇類似行為を禁止したため、鳴物入り道具噺(どうぐばなし)を得意とした三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう)は、素噺(すばなし)に転向します。また地方出身者がふえるにつれ、笑いの多い落語が好まれるようになり、珍芸四天王という人気者も生まれました。

江戸・東京:三遊亭圓朝
『圓朝全集』第一巻巻頭 三遊亭圓朝

『圓朝全集』第一巻巻頭
三遊亭圓朝

三遊亭圓朝は幕末に歌舞伎の書割や三味線、太鼓などを使った芝居仕立ての「鳴り物入り道具噺」で人気を得ましたが、師匠の2代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)が彼の前に高座に上がって、圓朝が予定していた演目を演じてしまうということがあり、その後は噺の創作を行うようになりました。『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』『怪談牡丹灯籠(かいだんぼたんどうろう)』『塩原多助(しおばらたすけ)』など多くの名作が生み出され、これらの作品は落語にとどまらず、講談や浪曲、芝居など、ほかの芸能としても演じられるようになります。

明治政府が寄席での演劇類似行為を禁止すると、道具噺は弟子に譲り、素噺に転向して話芸を極めるとともに優れた弟子を育てました。その功績から落語中興の祖と呼ばれるようにもなりました。

珍芸四天王の人気
『ごぜん上等すててこおどり』 守川周重作 明治13 年 珍芸四天王をはじめ人気の芸人を描いたもの。右端の赤い手拭いを被っているのが萬橘、右から3人目のラッパを持っているのが圓太郎、中央がステテコ踊りの圓遊、左端が談志

『ごぜん上等すててこおどり』
守川周重作 明治13 年
珍芸四天王をはじめ人気の芸人を描いたもの。右端の赤い手拭いを被っているのが萬橘、右から3人目のラッパを持っているのが圓太郎、中央がステテコ踊りの圓遊、左端が談志

明治維新後の東京は地方出身者が多くなりました。それに伴い、江戸っ子好みの人情噺よりも笑いの多い滑稽噺(こっけいばなし)が好まれるようになります。明治10年代には、初代三遊亭圓遊(さんゆうていえんゆう)が滑稽な文句と踊りの「ステテコ踊り」で人気を得ました。同様に初代三遊亭萬橘(さんゆうていまんきつ)は「ヘラヘラ踊り」で、4代目立川談志(たてかわだんし)は「郭巨(かっきょ)の釜掘り」という滑稽なしぐさで、4代目橘家圓太郎(たちばなやえんたろう)が馬車の御者の吹くラッパを高座で吹いて人気者となりました。この4人は珍芸四天王と呼ばれました。

圓遊は時事的な話題を盛り込んだ笑いの多い改作・新作落語も演じ、さらに人気を高めました。

素噺(すばなし)

鳴り物が入らず、扇子と手ぬぐい以外の道具を使わない噺

閉じる

ページの先頭に戻る