5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の治世である元禄期(1688年~1704年)頃、京の四条河原(しじょうがわら)や北野などの大道(だいどう)で活躍したのが露の五郎兵衛です。観客はござに座り、五郎兵衛は机のような台に座って滑稽(こっけい)な話をし、銭を得るという「辻噺」を行いました。少し遅れて大坂の生玉神社(いくたまじんじゃ)境内で、小屋掛けの辻噺を行って評判をとったのが米沢彦八です。また同じ頃、江戸でさまざまな屋敷に招かれて演じる「座敷噺」で評判を得たのが鹿野武左衛門です。いずれも不特定多数を聴衆として料金を取っていることから、彼らを落語家の祖と呼んでいます。
上方落語には、見台という小さな机を小拍子[手の中に入れて使う小さい拍子木]でカチャカチャと打ち鳴らすという江戸落語にはない特色があります。これは大道で演じていた名残といわれています。客足を止めるために大きな音を出す必要があったのです。
なお、江戸の落語ブームはすぐに下火になりました。元禄6年(1693年)に伝染病が発生した時、「南天の実と梅干を煎じてのむと治る」と馬が話した、と語る者が現れて、南天と梅干の値が上がる騒動が起きました。馬が話したというのは、鹿野武左衛門の小咄(こばなし:短い笑い話)から思いついたと彼らが述べたため、武左衛門が島流しになったのです。