大衆芸能編 寄席

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講談の歴史

話芸としての定着

江戸時代後期には優れた演者が生まれ、講釈は話芸としての形を整えました。この盛り上がりも、天保の改革で水を差されますが、禁制が解かれると今まで以上の盛り上がりとなりました。

『世間坊賎丸講釈図』 大笑いする者、じっと聞き入る者、物語にのめりこんでつい身体が動く者。老若男女が思い思いに講釈を楽しんでいる

『世間坊賎丸講釈図』
大笑いする者、じっと聞き入る者、物語にのめりこんでつい身体が動く者。老若男女が思い思いに講釈を楽しんでいる

江戸時代後期には講釈も話芸としての形を整え、大衆に定着してきました。伊東燕晋(いとうえんしん)は、家督争いを描いた御家騒動物や世相風俗を描いた世話物を読むことをきらい、『曽我物語(そがものがたり)』などの軍記物だけを読みました。湯島天神(ゆしまてんじん)の境内に住み、自宅を釈場[講釈場]としましたが、常に羽織袴(はおりはかま)を着用し、丁寧に挨拶をするので、客も静かに聞いたということです。講釈は徳川家康(とくがわいえやす)の業績などを民衆に説く「御記録読み」なので、聴衆より高い所から口演しなければならないと奉行所へ願い出て、高さ1メートル弱の高座で初めて演じた人物でもありました。

桃林亭東玉(とうりんていとうぎょく)は、堅苦しいものだった講釈を分かりやすくし、面白く演じたので、女性も彼の講釈を聞くようになりました。その反面、軍書講釈の神髄が崩れ、落語家同様の芸人のようだという批判も受けました。

東流斎馬琴(とうりゅうさいばきん)は、それまでの講釈師が棒読みで演じていたのを、男は男、女は女というように老若男女の声を変えて読み、身振りも加えて分かりやすく演じたので大衆に喜ばれました。また優秀な門人を多く育てました。

このような盛り上がりに水を差したのが、天保の改革(天保12年~14年[1841年~1843年])です。老中・水野忠邦(みずのただくに)を中心とした幕府が行ったこの改革では贅沢が禁止され、江戸市中に170軒余りあったともいわれる講釈場を、落語の寄席と合わせて15軒に減らされてしまいました。しかし禁制がゆるみ廃止されると再び講釈は盛り返し、いよいよ全盛期を迎えます。

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