大衆芸能編 寄席

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盛り上がる寄席

江戸時代も終わりにさしかかった文化・文政期(1804年~1830年)、落語は芝居噺(しばいばなし)や音曲噺(おんぎょくばなし)、怪談噺など多様化し、ブームとなりました。

芝居との交流と化政文化
『昔々歌舞妓物語』部分 柳亭種彦 作 歌川国貞 画 怪談噺の元祖といわれた初代林屋正蔵は、幽霊が出てきたりろうそくが点滅したりの凝った演出で人気を集めた

『昔々歌舞妓物語』部分
柳亭種彦 作 歌川国貞 画
怪談噺の元祖といわれた初代林屋正蔵は、幽霊が出てきたりろうそくが点滅したりの凝った演出で人気を集めた

庶民の文化が発展した化政時代[文化・文政期]、人や文化の交流が芸能の新しいジャンルを生み、相互に影響を与え合いました。落語と歌舞伎は互いに影響を与えています。

電気のないこの頃の芝居[歌舞伎]は、昼間に行われました。そのため観客の多くは女性でした。昼間、仕事をしていて芝居に行くことができない男性のために演じられるようになったのが芝居噺です。江戸では、噺の後半で、後ろ幕を下ろし、あらかじめ飾ってあった背景の前で、三味線などの鳴り物やツケに合わせて、芝居がかりの七五調のセリフなどで立廻り(たちまわり)を見せる正本芝居噺という形式が生まれました。また歌舞伎俳優の声色や身振りをまねたりもしました。

天保の改革と幕末の復興
安政5年(1858年)前後に亡くなった有名人たちが、極楽で浄瑠璃を聞いているという趣向の追善絵[供養のための絵]。提灯には「極楽大さらえ」、客席の貼り紙には「えんま大王より」などとある

『蓮台高名大一座』
安政5年(1858年)前後に亡くなった有名人たちが、極楽で浄瑠璃を聞いているという趣向の追善絵[供養のための絵]。提灯には「極楽大さらえ」、客席の貼り紙には「えんま大王より」などとある

老中・水野忠邦(みずのただくに)が行った天保の改革(天保12年~14年[1841年~1843年])では倹約令が施行され、風俗も取り締まられました。芝居小屋を江戸郊外の浅草へ移転させて歌舞伎俳優の居住地や行動を制限したり、7代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)を江戸から追放したりしました。寄席も大半が閉鎖を命じられました。江戸市中には200軒以上もの寄席がありましたが、30年以上営業している15軒と寺社境内で行われている9軒だけしか残されませんでした。また内容も娯楽性の低い神道講釈、心学軍書講釈、昔噺だけに限られました。しかし忠邦が失脚すると、禁令もゆるみ、安政期(1854年~1860年)には江戸市中の寄席は軍談席約220軒、昔噺席約170軒と以前にも増す盛況ぶりとなりました。

芝居噺(しばいばなし)

歌舞伎のようにセリフを七五調で言ったり、立廻りを見せたりする噺

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ツケ

役者の動きに合わせて、舞台袖で拍子木に似た木を板に打ちつけて音を出し、芝居の効果をあげること

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心学(しんがく)

江戸時代、神道・儒教・仏教をもとに石田梅岩(いしだばいがん)が唱えた実践道徳の教え

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軍書講釈(ぐんしょこうしゃく)

『平家物語』などの合戦物語を扱った講談

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