1718年、2度目の踊奉行(おどりぶぎょう)[冊封使(さくほうし)をもてなす宴(うたげ)で音楽や舞踊などを担当する役職]に任命された玉城朝薫は、翌年に行われる尚敬王(しょうけいおう)の冊封の御冠船踊(おかんせんおどり)のために初めて組踊を創作しました。
このときに上演した『二童敵討(にどうてきうち)』が組踊の初演です。
当時、冊封使だった徐葆光(じょほこう)が書いた『中山伝信録(ちゅうざんでんしんろく)』によると、『二童敵討』と『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』の2演目が宴で上演されたと記されています。
朝薫が創り出した組踊は、朝薫が江戸上り(えどのぼり)のときに見聞したと思われる能楽や歌舞伎など日本本土の芸能の様式を取り入れながらも、琉球の歴史や故事、説話などを題材に、せりふには琉球の古いことばが使われ、さらに琉球三線音楽と琉球舞踊を融合させ、この国独自の歌舞劇として生み出されました。
朝薫はさらに『銘苅子(めかるし)』『孝行の巻(こうこうのまき)』『女物狂(おんなものぐるい)』も書き上げ、5演目を完成させました。この5演目は「朝薫五番」ともいわれ、現在もよく上演される組踊の代表作となっています。