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組踊の歴史

組踊を創った玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)

馬に乗って江戸城へ向かう玉城朝薫
『琉球中山王両使者登城行列』[一部]国立公文書館所蔵

江戸上り(えどのぼり)と朝薫の生い立ち

薩摩の琉球侵攻と江戸上り

1609年、琉球王国は薩摩藩(さつまはん)[鹿児島]に侵攻され、中国と朝貢[中国皇帝に貢ぎ物を献上すること]関係のある王国としての地位を保ちながら、薩摩藩の支配を受けるようになりました。
以来、徳川将軍と琉球国王が代替りするたびに、琉球王府は使節を江戸幕府に派遣しました。これを「江戸上り」といい、使節は薩摩藩に従って江戸[東京]まで旅をしました。

音楽を奏でながら行列をする使節の一行は、通過する各地で歓迎を受け、江戸城や薩摩藩江戸屋敷では「御座楽(おざがく)」と呼ばれる音楽や舞踊などの芸能を披露しました。
江戸上りの期間は半年から1年にも及び、その間、一行は能楽をはじめ歌舞伎など当時京都や大坂[大阪]、江戸で流行していた芸能から多くのものを学びました。

玉城朝薫の生い立ち

組踊の創始者である玉城朝薫は、1684年に首里(しゅり)[沖縄県那覇市内]で生まれました。
父は玉城朝到(たまぐすくちょうち)、母は野国正恒(のぐにしょうこう)の娘、真鍋(まなべ)といいます。生まれてすぐに母と離別し、5歳の時に父が死去。祖父の玉城朝恩(たまぐすくちょうおん)に育てられますが、その祖父も死去し、わずか9歳で跡目を継ぐことになります。13歳からは首里城に勤め始めました。

朝薫は音楽や舞踊、文芸など芸術的な才能が豊かな人物でした。琉球の三線(サンシン)音楽の基礎を築いたといわれる幸地賢忠(こうちけんちゅう)[湛水(たんすい)親方(ウェーカタ)]の孫弟子にあたる新里朝住(しんざとちょうじゅう)に音楽を学び、その技能を高く評価されました。
その才能は琉球王府にも認められ、朝薫は21歳のときを皮切りに薩摩・江戸を計7回も往来しています。その際に日本本土の芸能を鑑賞した経験が後の組踊の創作につながったといわれています。

  • 組踊誕生の背景
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  • 組踊関連年表
 

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