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組踊の歴史

組踊誕生の背景

首里城(しゅりじょう)で行われた御冠船踊の様子
徐葆光『中山伝信録』より「中山王府中秋宴図」[那覇市史資料篇第1巻3より引用]那覇市歴史博物館所蔵

中国からの使者
冊封使(さくほうし、サッポウシ)

沖縄は、琉球王国成立以前、中山(ちゅうざん)、北山(ほくざん)、南山(なんざん)という3つの国に分かれていました。その1つ、中山国の国王である察度(さっと)が1372年に中国へ朝貢[中国皇帝の家臣として国交を結び、貢ぎ物を献上すること]を行ったことから中国との国交が始まります。
1429年、中山国が三山を統一して琉球王国が誕生した後も、中国への朝貢は引き続き行われました。
朝貢関係により、歴代の中国王朝は、琉球国王死去の報せを受けると、冊封使を琉球へ派遣しました。冊封使の任務は、先代の国王の葬儀「諭祭(ゆさい)」と、新しい国王を任命する「冊封」です。冊封使の一行は、正使・副使が医師や天文学者、兵士、乗員、船大工など技術者数百人を率いてやってきました。
冊封使一行は、春に南西の季節風を利用して福州(ふくしゅう)から帆船で琉球にやってきて、帰路は、秋の東北の季節風を待って帰国していたので4ヵ月から8ヵ月の長期間、琉球に滞在しました。
[冊封使の航路を「地図で見る冊封使と江戸上り」で見る]

冊封使をもてなす御冠船踊(おかんせんおどり)

冊封使の滞在中、琉球王府は歓迎の宴(うたげ)を7回催しました。これを七宴(しちえん)といい、第3宴「中秋之宴(ちゅうしゅうのえん)」と第4宴「重陽之宴(ちょうようのえん)」では、三線(サンシン)音楽や舞踊などの芸能が特に多く演じられました。
冊封使が新しい琉球国王に授ける王冠を携えて来たことから、冊封使の船を御冠船と呼び、冊封使を歓迎する宴で演じる芸能を御冠船踊といいました。

琉球王府は御冠船踊を国家の重要な行事に位置付け、宴の音楽や舞踊を担当する「踊奉行(おどりぶぎょう)」という役職を設置しました。冊封使が来ることが決まると、王府は貴族や士族の中から踊奉行を任命し、冊封の2、3年前から稽古に取り掛からせたといわれています。

冊封使によって、当時アジアの中で最も発展していた中国の優れた特産品や文物、文化などが琉球王国に伝わりました。琉球王国は中国をはじめとする諸外国との交流を通じて、独自の文化を築き上げていきました。

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