永禄8年(1565年)、織田信長(おだのぶなが)の知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)の副状(そえじょう)に書かれた「木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)秀吉」という署名が、文書に初めて見出せます。この「木下」姓は、妻・ねねの実家の姓といわれています。その後、天正元年(1573年)に同じ織田家中の重臣・丹羽長秀(にわながひで)と柴田勝家(しばたかついえ)の苗字から1字ずつ取って「羽柴(はしば)」と名乗ります。天正10年(1582年)の「本能寺の変」後は、平家の流れを汲む織田信長の後継者として、平氏を称しました。天正13年(1585年)関白に就任するため、前の関白・近衛前久(このえさきひさ)の猶子(ゆうし:相続権のない養子)となって藤原氏となります。同年に関白に就任、翌天正14年(1586年)には、太政大臣(だじょうだいじん)も兼任します。この時、源平藤橘(げんぺいとうきつ)の4姓の他に「豊臣」という新しい姓の下賜を願い、豊臣姓を名乗ることになります。「豊臣」の由来は明らかではなく、「天長地久、万民快楽」の意を込めたとも、「君臣豊楽」に由来するともいわれています。豊臣秀吉は、天正15年(1587年)に関白公邸として京都に豪壮な聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)を建設します。翌年には後陽成天皇(ごようぜいてんのう)がこの聚楽第に行幸し、豊臣家の権勢を内外に知らしめました。豊臣秀吉は、武家として天下統一を成し遂げ、公家としても第1位の地位を手に入れたのです。