歌舞伎編「黙阿弥」

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TOP > 取り巻く人々 > 周囲の人々(明治期)
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取り巻く人々

周囲の人々

江戸期
明治期

坪内逍遙(つぼうちしょうよう) 安政6年[1859年]~昭和10年[1935年]

 明治期(1868年~1912年)に活躍した文学者です。本名は雄藏(ゆうぞう)。美濃国加茂郡[現在の岐阜県美濃加茂市]の武士の家に生まれ、子どものころから名古屋の歌舞伎を見、貸本屋(かしほんや)でさまざまな江戸文学の本や歌舞伎の台本を多く読んで育ちました。上京し東京大学卒業後、文学・演劇・教育などについて数多くの仕事をし、実際に新しい演劇を行う団体もつくりました。黙阿弥には敬意をもち、演劇改良運動の中で「古い」と非難されたときにはかばい、「明治の近松、当今のシェイクスピヤ」「江戸演劇の大問屋(おおどんや)」とたたえています。

福地桜痴(ふくちおうち) 天保12年[1841年]~明治39年[1906年]

 明治期に活躍した政治家・新聞記者・小説家です。本名は源一郎(げんいちろう)。長崎の医者の家に生まれ、江戸で英語を学び、幕府の通訳としてヨーロッパへ渡りました。そこでさまざまな演劇を見、新聞に関心を持ちました。帰国後『東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)』などで記者として活躍し、政治活動も行います。歌舞伎の台本を書き、小説家でもありました。黙阿弥に対しては批判的で、自ら経営にかかわった歌舞伎座の第1回興行で上演した『俗説美談黄門記(ぞくせつびだんこうもんき)』(明治22年[1889年])は、黙阿弥の作品に演劇改良の立場から手を入れたものでした。しかし、結果として黙阿弥とその弟子たちからさまざまな影響を受けています。

2代目松林伯円(しょうりんはくえん) 天保5年[1834年]~明治38年[1905年]

 幕末から明治の講釈師(こうしゃくし:近代以降[講談師(こうだんし)])。姓は「まつばやし」とも読みます。下館(しもだて:現在の茨城県筑西市)藩の郡奉行(こおりぶぎょう)の子として生まれますが、講釈[講談]に熱中し、講釈師[講談師]となりました。泥棒の活躍する白浪物(しらなみもの)を多く創作し、語るのを得意としていたので「泥棒伯円」というあだ名がついたほどでした。黙阿弥の作品『鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)』(安政4年[1857年])、『網模様灯籠菊桐(あみもようとうろのきくきり)』(安政4年[1857年])、『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』(明治14年[1881年])などは伯円の作品を参考にして書かれていると考えられています。

初代花柳壽輔(はなやぎじゅすけ) 文政4年[1821年]~明治36年[1903年]

歌川周重画
『日高川紀国名所』
左端に初代花柳壽輔の姿

 幕末から明治の振付師(ふりつけし)。芝神明(しばしんめい)に生まれ、新吉原の料理の仕出し屋に養子に入り、子どものころから4代目西川扇蔵(にしかわせんぞう)について踊りの修行を積みました。一時期俳優となりましたが、19歳から舞踊(ぶよう)の振付師となりました。花柳流(はなやぎりゅう)をはじめた人です。歌舞伎の演技の古い型もよく知っていて俳優に教えました。黙阿弥とはたがいの活動が盛んな時期が重なっており、多くの作詞曲に振りをつけています。とくに5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)初演の松羽目物(まつばめもの:能・狂言に題材を取った舞踊劇で、背景に能舞台を模した松羽目を用いるもの)『土蜘(つちぐも)』(明治14年[1881年])、『茨木(いばらき)』(明治16年[1883年])、『戻橋(もどりばし)』(明治23年[1890年])などは、壽輔が振りをつけて独特の形式をつくりあげました。

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