歌舞伎編「黙阿弥」

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TOP > 取り巻く人々 > 狂言作者(3代目河竹新七)
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取り巻く人々

狂言作者 3代目河竹新七(天保13年[1842年]~明治34年[1901年])

経歴と特色

豊原国周画「千歳座初始之図」明治18年(1885年)2月 3代目河竹新七の肖像(国立劇場蔵)03118
豊原国周画
「千歳座初始之図」
明治18年(1885年)2月
3代目河竹新七の肖像
(国立劇場蔵)03118

 神田に生まれ、幼名を菊川金太郎(きくかわきんたろう)といいました。猿若町の小間物屋に奉公したのち、黙阿弥の内弟子になり、作者の道へ進みます。安政4年(1857年)5月、市村座で竹柴金作(たけしばきんさく)と名乗り、明治5年(1872年)1月、中村座で立作者(たてさくしゃ)になります。明治17年(1884年)に黙阿弥の勧めで3代目河竹新七を継ぎました。
 その作風は駄洒落(だじゃれ)を多く入れるなど、軽妙で機知に富みました。速筆でも知られ、生涯に80余種の作品を書きました。草双紙などの小説や講釈(こうしゃく:近代以降[講談(こうだん)])、人情噺などを基に脚色した作品も多く、そうした特色も含めて、黙阿弥の弟子の中でも作風をよく受け継いだのが3代目の新七といわれています。
 黙阿弥没後の低迷した劇界で活躍し、5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)へあてて書いた作品の多くが当たりをとり、いずれも菊五郎家の「新古演劇十種(しんこえんげきじっしゅ)」に数えられています。

黙阿弥との関わり

 猿若町で小間物屋奉公をしていた時分、黙阿弥の『吾妻下五十三駅(あずまくだりごじゅうさんつぎ)』を観て感銘を受け、作者を志望したといわれます。江戸の雑学者・石塚豊芥子(いしづかほうかいし)の紹介で黙阿弥の弟子となりました 。黙阿弥が弟子たちに竹柴の姓をつけたのは、黙阿弥が竹芝の浦で育った縁と河竹の竹をとったことからです。30名以上いた黙阿弥の弟子の中でも、もっとも黙阿弥の作風を継いだことも、師が長く用いた河竹新七の名を継ぐことになったゆえでしょう。

主な作品

『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』(明治21年[1888年]5月)
『塩原多助一代記(しおばらたすけいちだいき)』(明治25年[1892年]1月)
『江戸育御祭左七(えどそだちおまつりさしち)』(明治31年[1898年]5月)

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