歌舞伎編「黙阿弥」

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TOP > 取り巻く人々 > 幕内(6代目河原崎権之助)
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取り巻く人々

幕内 6代目河原崎権之助(文化11年[1814年]~明治元年[1868年])

歌川芳員画
「東都名所 芝居町の図」

 幼名権三郎(ごんざぶろう、または弥三郎とも)。5代目権之助の後妻の連れ子で、子どものころは行商で売り歩く呉服屋に奉公します。文政13年(1830年)4月、義父の5代目が老年となったため正式に跡をつぎ、河原崎座(かわらさきざ)の太夫元(たゆうもと:興行の代表責任者)となりました。
 経営方針は手堅く、安政2年(1855年)末に森田座と経営を交代するまでの25年余り、河原崎座は安定した状態で興行を続けました。それは時代物が好きで新作を好まず、当時すでに評価が決まっていて現在も繰り返し上演されるような作品を中心に上演したためと言われます。
 森田座[安政5年(1858年)以降守田座と改称]に経営権を返したあと、権之助は市村座の金主(きんしゅ:出資者)になりますが、河原崎座をもう一度守田座とは別に建てたいと思っており、奉行所に願書を出していました。しかし明治元年(1868年)9月23日の夜、自宅に入った強盗に斬られて亡くなりました。

黙阿弥との関わり

 黙阿弥は天保9年(1838年)正月から河原崎座に作者として勤めています。はじめて名が認められた作品『升鯉滝白旗(のぼりごいたきのしらはた)』(嘉永4年[1851年])や、4代目市川小團次(いちかわこだんじ)との提携が始められた作品『都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)』(安政元年[1854年])が上演されたのは、権之助の経営していた河原崎座です。権之助が市村座の金主となってから、黙阿弥はやはり市村座に作者として出勤しています。はじめ黙阿弥は、新しい作品を上演したがらない河原崎座の方針が合わず、若いころは苦労したようです。しかし権之助は黙阿弥の才能を認め、娘の婿にして座付きの作者にしたいと考えていたようです。先輩の助言で黙阿弥が座付きになることを避けたため、その話は実現しませんでした。

コラム

 権之助はまじめな人で、きちんと劇場の借金を返していたことから信用を得たと言われています。また、田舎から出てきたばかりの侍のような無骨な髪の結いかたから、「太髷(ふとまげ)」「大たぶさ」というあだ名がありました。まだ妻を持たないうちから、7代目・8代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)の人気を見て、その子・弟であるのちの9代目を養子にし、自分の母の助けを借りながら厳しい英才教育を施したことにも、権之助の経営者としての先を読む目の確かさをうかがうことができるでしょう。

権之助の生年は、文化11年(1814年)のほかに文化10年(1813年)、14年(1817年)説があります。

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