歌舞伎編「黙阿弥」

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TOP > 取り巻く人々 > 幕内(12代目守田勘弥)
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取り巻く人々

幕内 12代目守田勘弥(弘化3年[1846年]~明治30年[1897年])

豊原国周画
「新富座本普請出来之図」
明治11年(1878年)1月(開場は6月)
左から2番目に12代目守田勘弥の姿

 興行師。市村座・守田座の帳元(ちょうもと:支配人)をつとめた中村翫左衛門(なかむらかんざえもん)の次男として江戸に生まれ、子どものころから劇場経営のための教育を受けて育ちました。11代目守田勘弥(4代目坂東三津五郎[ばんどうみつごろう])の養子となって、文久4年(1864年)2月から12代目を名乗ります。明治5年(1872年)には、ほかの劇場に先がけて守田座を東京の中心に近い新富町(しんとみちょう)に移しました[明治8年新富座と改称]。つねに最高の俳優と作者をそろえ、新富座以外の劇場の経営も行おうとする野心的な経営方針は、多くの借金を生みました。一方で勘弥は政財界の実力者と積極的に交流し、歌舞伎の社会的な地位を向上させるために努力します。明治20年(1887年)4月に行われた天覧劇(てんらんげき)は、その成果のひとつです。晩年は借金のため新富座を手放しましたが、歌舞伎座の経営にも助言を行いました。

黙阿弥との関わり

 明治2年(1869年)以降、活動の中心を守田座・新富座に移した黙阿弥は、ほかの劇場とかけもちをしながら、9代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)や5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)をはじめとする俳優たちのために、彼らの芸の特徴に合わせながら作品を書きました。明治時代以降の代表作の多くは、勘弥が経営にかかわった劇場で初演されています。明治14年(1881年)11月、2代目河竹新七(かわたけしんしち)が黙阿弥と名を改め、引退披露した興行で、勘弥は自分の名義の口上看板を黙阿弥のために新富座の前にかかげさせましたが、それは非常にめずらしいことでした。勘弥は明治10年代末から20年代の初頭、黙阿弥の弟子として古河新水(ふるかわしんすい)の名を与えられ、助言を受けながら『三府五港写幻燈(さんぷごこううつすげんとう)』などいくつかの作品を書いています。

コラム

 明治11年(1878年)6月、新富座は劇場を新築し、劇場関係者のほとんどが燕尾服(えんびふく)を着て椅子に座って舞台に並ぶ画期的な開場式を行いました[女方(おんながた)は羽織袴]。黙阿弥はこの開場式で、生涯にただ一度洋服を着ました。黙阿弥だけでなく9代目團十郎、5代目菊五郎、初代市川左團次(いちかわさだんじ)がこのとき写した写真も残っていますが、企画者である勘弥の洋装の写真は残っていません。

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