歌舞伎編「黙阿弥」

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TOP > 取り巻く人々 > 歌舞伎俳優(初代市川左團次)
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取り巻く人々

歌舞伎俳優 初代 市川左團次(天保13年[1842年])~明治37年[1904年]) 屋号:高島屋

経歴と芸の特色

豊原国周画
『明治年間東日記』
(左)狼の九蔵に扮する初代市川左團次
(右)轟坂五郎に扮する5代目尾上菊五郎

 本名は高橋栄三(たかはしえいぞう)。幼名は辰蔵(たつぞう)。俳名は莚升(えんしょう)・松蔦(しょうちょう)。大坂の床山(とこやま:劇場付きの髪結い)の父の次男として生まれ、はじめは子供芝居に出ていたようです。13歳の時に市川小米(こよね)と名乗りました。道頓堀の芝居に出演するようになり、文久2年(1862年)正月、升若(しょうじゃく)と改名。江戸中村座に招かれ、4代目市川小團次(いちかわこだんじ)の養子となり、元治2年(1865年)正月に左團次と改名します。関西のなまりがなかなか抜けなかったことなどから伸び悩みますが、黙阿弥の後援もあって次第に実力を発揮していきます。とくに時代物に独特の才能があり、9代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)の弟子分でありながら、9代目團十郎や5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)とともに「團菊左(だんきくさ)」と称される名優になりました。また東京久松町にあった劇場の千歳座(ちとせざ)を明治座と改称し、明治26年(1893年)11月から、自ら出演しながら経営にあたりました。子の2代目市川左團次は、初期の新劇劇団である自由劇場の創立者のひとりとしても知られています。

黙阿弥作品との関わり

 若いころ、ともに仕事をして自分をもりたててくれた4代目小團次に、黙阿弥は深い恩義を感じていました。左團次が、その小團次の養子であることから、黙阿弥は左團次のために後援をおしみませんでした。慶応4年(1868年)、左團次は俳優を廃業しかけますが、それは太夫元(たゆうもと:興行の代表責任者)の河原崎権之助(かわらさきごんのすけ)の意向で、河原崎座でついた役が作者黙阿弥の考えと違ったことが理由でした。これ以降、黙阿弥は左團次とともに守田座へ活動の中心を移します。明治3年(1870年)に書かれた『樟紀流花見幕張(くすのきりゅうはなみのまくばり)』の丸橋忠弥(まるばしちゅうや)は左團次の骨太な演技に合った役で成功をおさめ、子の2代目左團次まで続く当たり役となりました。
 また黙阿弥の作品で初代左團次は、9代目團十郎や5代目菊五郎が演じる役と対立、または協力する立場の役を多くつとめ、好評を得ています。

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