歌舞伎編「黙阿弥」

  • 文化デジタルライブラリーへ戻る
  • サイトマップ
  • クレジット
  • このサイトについて
  • 索引
  • 早わかり
  • 黙阿弥とその時代
  • 取り巻く人々
  • 作品の特色
  • 作品の紹介
TOP > 取り巻く人々 > 歌舞伎俳優(9代目市川團十郎)
前ページへ戻る

取り巻く人々

歌舞伎俳優 9代目 市川團十郎(天保9年[1838年]~明治36年[1903年]) 屋号:成田屋(河原崎家の時代は巴屋、山崎屋)

経歴と芸の特色

豊原国周画
『天衣紛上野初花』
河内山宗俊に扮する9代目市川團十郎

 本名は堀越秀(ほりこししゅう)。幼名は長十郎(ちょうじゅうろう)。俳名は三升(さんしょう)・寿海(じゅかい)・團洲(だんしゅう)など。7代目市川團十郎の五男として生まれ、すぐに河原崎座の太夫元(たゆうもと:興行の代表責任者)6代目河原崎権之助(かわらさきごんのすけ)の養子となり、多くの師をつけられ芸と教養を厳しく磨かれました。嘉永5年(1852年)9月に河原崎権十郎(ごんじゅうろう)と改名します。しかし明治元年(1868年)9月に養父が亡くなり、明治7年(1874年)7月に市川家に戻って9代目を襲名しました。時代物と、その一種である活歴物(かつれきもの)に優れ、舞踊(ぶよう)の名手でもありました。声が大きく、セリフまわしも巧みだったようです。新富座、歌舞伎座に多く出演し、当時の政治家・財界人・文人とお互いに敬意を持って交流しました。対照的な芸風のライバル5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)とともに「團菊(だんきく)」、初代市川左團次(いちかわさだんじ)を加えて「團菊左(だんきくさ)」と並び称され、役者の代表として「劇聖(げきせい)」とも呼ばれます。

黙阿弥作品との関わり

 若いころから黙阿弥作品の主要な登場人物を演じました。おもな作品に『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』(万延元年[1860年])のお坊吉三(おぼうきちさ)、『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』(文久2年[1862年])の忠信利平(ただのぶりへい)、『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』(明治14年[1881年])の河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)、『極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)』(明治14年[1881年])の長兵衛(ちょうべえ)などがあります。活歴物では『増補桃山譚(ぞうほももやまものがたり)』(明治6年[1873年])の加藤清正(かとうきよまさ)、『北條九代名家功(ほうじょうくだいめいかのいさおし)』(明治17年[1884年])の北條高時(ほうじょうたかとき)などがあります。また舞踊では『船弁慶(ふなべんけい)』(明治18年[1885年])、『紅葉狩(もみじがり)』(明治20年[1887年])などを初演しています。これらの中には、父・7代目團十郎の選定分に加えて9代目團十郎が選んだ家の芸「新歌舞伎十八番(しんかぶきじゅうはちばん)」に入った作品もありました。

コラム

 團十郎の趣味は釣りで、船の上でいつも役について考えていたそうです。けっして美貌ではありませんでしたが、女方(おんながた)の踊りは踊っているうちに女らしく見えたという評が残っています。また、子どものころ受けた教育の中には書画も含まれており、とくに絵は、明治19年(1886年)5月の黙阿弥の作『夢物語廬生容画(ゆめものがたりろせいのすがたえ)』で演じた渡辺崋山(わたなべかざん)の役で、毎日舞台の上で扇へ実際に描いてみせるほどの腕前でした。

ページの先頭に戻る