歌舞伎編「黙阿弥」

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TOP > 取り巻く人々 > 歌舞伎俳優(4代目市川小團次)
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取り巻く人々

歌舞伎俳優 4代目 市川小團次(文化9年[1812年])~慶応2年[1866年]) 屋号:高島屋

経歴と芸の特色

2代目歌川国貞画
『三題咄高座新作』
髪結藤次に扮する4代目市川小團次

 幼名は栄太(えいた)、俳名は米升(べいしょう)など。江戸の市村座で火縄売り(ひなわうり:芝居小屋で喫煙用の火縄を売り歩く商い)をしていた父と共に幼くして上方(かみがた)へ移り、少年だけで一座を組織する子供芝居へ出演しながら地方の芝居小屋(しばいごや:歌舞伎の劇場)を回り、天保の改革(天保12年~14年[1841年~1843年])によって江戸を追われて旅回りの芝居に出ていた7代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)へ入門。幕府によって興行を許可された大芝居よりも格下の中芝居(ちゅうしばい)で修行しながら人気を得て、弘化元年(1844年)に4代目市川小團次を襲名します。弘化4年(1847年)には江戸へ戻り、大芝居へ出演しながら家柄ではなく自身の実力だけで座頭(ざがしら:一座の俳優のまとめ役)という役者の最高位にまで昇りつめました。小團次は口跡(こうせき:声の調子やセリフの言い回し)が悪く、小男で容貌にも恵まれませんでしたが、演技や演出に様々な工夫を重ねながら、江戸の生世話狂言(きぜわきょうげん)に上方の辛抱狂言(しんぼうきょうげん:敵からの圧力に対して忍耐することが見せ場となる芝居)の役柄を取り込み、下層の庶民を写実的に演じるという幕末江戸歌舞伎の潮流を創り上げました。

黙阿弥作品との関わり

 黙阿弥と小團次の関係は、安政元年(1854年)に河原崎座で上演された『都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)』から始まりました。この時、気難しい小團次は黙阿弥の台本が気に入らず、何度も書き直しをさせました。黙阿弥も、義太夫語りに場面の描写[地の文]を語らせるという演出法を取り入れ、小團次の上方系の芸風を最大限に活かすなどの工夫で応えました。この芝居の成功によって黙阿弥は小團次から実力を認められ、小團次が亡くなるまでの間ふたりの提携は続きました。このコンビによって、万延元年(1860年)市村座で初演された『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』など、数々の名作と当り役が生み出されていくのです。

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