歌舞伎編「黙阿弥」

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作品の紹介

代表作品

梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)

概要
あらすじ
鑑賞のポイント
コラム
『梅雨小袖昔八丈』という題について

 享保12年(1727年)に、江戸材木商白子屋(しろこや)の妻・お常(おつね)、娘・お熊(おくま)、お熊と密通していた手代・忠七(てだい・ちゅうしち)によるお熊の婿・又四郎(またしろう)の殺害計画が発覚し、お熊は死罪となりました。江戸市中引き回しの際に、お熊は黄八丈(きはちじょう)の小袖を着ており、これが人々の話題となりました。
 この事件がモデルとなって、安永4年(1775年)に人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり:近代以降[文楽(ぶんらく)])『恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)』が上演され、翌年には歌舞伎でも上演されて「お駒才三(おこまさいざ)」の世界として定着していきました。本作の『梅雨小袖昔八丈』という題は、旧作の『恋娘昔八丈』と、初演時の上演が6月であった事からきているものなのです。

5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)と深川閻魔堂(ふかがわえんまどう)

 5代目尾上菊五郎がまだ若かった頃、芝居を観に来ていた美しい娘が気になり、自宅へ招待したりするなど娘をもてなしました。その後、娘の住んでいる場所を突きとめようとして、菊五郎は娘が送りの舟を降りた深川閻魔堂橋の周囲を懸命に探しましたが、とうとう娘の家は見つかりませんでした。
 その後『梅雨小袖昔八丈』を初演する際、弥太五郎源七(やたごろうげんしち)役を務めた3代目中村仲蔵(なかむらなかぞう)と、「深川閻魔堂橋の場」での髪結新三(かみゆいしんざ)と源七の登場方法をめぐって口論となりましたが、結局その辺りの土地について詳しく知っていた菊五郎の意見が通りました。その際、仲蔵から「若いのに調べが良く行き届いている」と菊五郎は大いに誉められました。しかし、菊五郎自身は閻魔堂橋周辺の土地に詳しかった本当の理由を言えず、脇の下から冷や汗が出る様な気持ちになったそうです。

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