歌舞伎編「黙阿弥」

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黙阿弥とその時代

黙阿弥をめぐる動き

地図で見る Flashアニメーション 江戸三座の動き/黙阿弥の住居

引退期~名を黙阿弥と改めて、書き続ける~

萌芽期
習作期
成熟期
円熟期
引退期
歌川周重画
『島鵆月白浪』
黙阿弥引退時の刷物「引しほ」

 明治期(1868年~1912年)の演劇改良の波にあっても、黙阿弥は活歴物(かつれきもの)や散切物(ざんぎりもの)、『土蜘(つちぐも)』(明治14年[1881年])などの松羽目物(まつばめもの:能・狂言に題材を取った舞踊劇で、背景に能舞台を模した松羽目を用いるもの)を書き続けました。しかし、明治14年(1881年)11月、66歳の黙阿弥は、明治を代表する名優「團菊左(だんきくさ)」が総出演した散切物の『島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)』を一世一代(いっせいいちだい)に引退を披露し、名を「黙阿弥」と改めます。
 「腸(はらわた)のなき愚かさに直(すぐ)な道知らで幾年(いくとせ)横に這ふ蟹」と詠んだこの時の配り物に「蟹」の異名である「腸のなき=無腸」とその姿である「横に這う」には自虐的な評価が込められ、言い表せない欝憤(うっぷん)を含んだ心情があったと察せられますが、黙阿弥の名には、「隠居して元の木阿弥になり、黙する」や「素人に戻って再出発」の意が込められたと解されます。
 自らが兼勤した各劇場の立作者(たてさくしゃ)には弟子たちをあてますが、劇界は引退した黙阿弥を離さず、その後も『新皿屋舖月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』(明治16年[1883年])などの名作を書きました。明治25年(1892年)、77歳の喜寿(きじゅ)を迎えた黙阿弥は2度目の引退をします。『奴凧廓春風(やっこだこさとのはるかぜ)』を絶筆に、明治26年(1893年)1月22日、作者人生の幕を閉じました。

コラム
『著作大概(ちょさくたいがい)』と遺書

 『著作大概』は黙阿弥晩年の手記です。黙阿弥百年忌の平成4年(1992年)になり、黙阿弥の曾孫(ひまご)に当たる河竹登志夫(かわたけとしお)氏が発見し、そこに書かれた「何事にも口を出さずだまって居る心にて黙の字を用いたれど、又出勤する事もあらば元のもくあみとならんとの心なり」とある一文に着目し、黙阿弥は作者復帰の意思を密かに抱きつつ、心ならずも引退を表明したであろうと解明し、「黙」の字の意味の「隠居して黙する」という、河竹繁俊(かわたけしげとし)氏の代まで解釈されていた定説をくつがえしました。黙阿弥の遺言には「本葬を出せば、皆様に丸一日を潰させ、かつもし風雨にでもなったら、皆様の晴着を汚させる(中略)あとのことは任せる」とあり、本葬を出さなかったといいます。「三親切[見物に親切、俳優に親切、座元に親切]」を貫いた黙阿弥は、最期まですべての人を思いやる作者であり続けました。

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