歌舞伎編「黙阿弥」

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黙阿弥とその時代

黙阿弥をめぐる動き

地図で見る Flashアニメーション 江戸三座の動き/黙阿弥の住居

円熟期~明治の波と江戸の残照~

萌芽期
習作期
成熟期
円熟期
引退期
2 代目歌川国貞画
市村座の楽屋の様子
入口近くに黙阿弥の姿

 黙阿弥は、4代目市川小團次(いちかわこだんじ)と提携するほか、3代目澤村田之助(さわむらたのすけ)や13代目市村羽左衛門(いちむらうざえもん)ら、台頭する若手役者たちの個性を引き立てる作品を次々と生み出しました。そうして江戸三座(えどさんざ:江戸歌舞伎を代表する3つの幕府公認劇場)を兼任する作者となり、円熟してもなお精力的に歌舞伎を書き続けていた黙阿弥に、小團次の死という突然の衝撃が訪れます。慶応2年(1866年)2月、白浪物(しらなみもの)の『船打込橋間白浪(ふねへうちこむはしまのしらなみ)』が小團次の鋳掛屋・松五郎(いかけや・まつごろう)の好演で大当りとなり、あたかも盗賊が正当化されたような大衆のヒーローがまたひとり誕生しました。すると、座元(ざもと:劇場経営者)たちが集められ、寺社奉行から今後は勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の主旨に反する世話物を上演しないように、とのお達しを受けます。黙阿弥からこのことを聞いた小團次は憤慨し、間もなく病に亡くなったのです。
 明治を迎え、黙阿弥には新時代の波が到来しますが、9代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)に時代物を、5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)に世話物を、5代目菊五郎や初代市川左團次(いちかわさだんじ)のためには新風俗を取り入れた散切物(ざんぎりもの)を書くなど、時代の志向と役者の柄(がら)に合わせた作品を書く姿勢は変わらず、新時代を作者として突き進みました。

コラム
狂言作者の三親切

 黙阿弥には、立作者(たてさくしゃ)になって以来、慶応元年(1865年)までに合計33人の門弟があったといいます。黙阿弥は、門弟たちに「狂言作者には三親切ということがある。第一は見物に親切、第二は俳優に親切、第三は座元に親切」と言い聞かせていました。
 伝統的な狂言作者として、周囲からのさまざまな要請に応え続けた黙阿弥は、この三親切を身をもって実践したといえるでしょう。4代目小團次の求めに応じて作品を何度も改訂したことがきっかけで、のちの提携へとつながり、多くの白浪物(しらなみもの)の名作を誕生させました。また明治期(1868年~1912年)においては、史実に忠実な時代物を望む9代目團十郎や演劇改良を推進する知識人たちの希望を受け入れ、活歴物(かつれきもの)や翻案劇などの新時代に応じた作品を創造したのです。

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