歌舞伎編「黙阿弥」

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黙阿弥とその時代

黙阿弥をめぐる動き

地図で見る Flashアニメーション 江戸三座の動き/黙阿弥の住居

成熟期~幕末歌舞伎の全盛期を支える~

萌芽期
習作期
成熟期
円熟期
引退期
落合芳幾画
「三芝居舞台開予告口上」
上段の真ん中に黙阿弥

 天保14年(1843年)、黙阿弥は2代目河竹新七(かわたけしんしち)を襲名し、立作者(たてさくしゃ)となりました。そして、安政元年(1854年)『都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)』の改訂を機に、4代目市川小團次(いちかわこだんじ)との緊密な提携関係が始まります。特に安政大地震後の安政3年(1856年)7月に市村座で小團次と同座し、『蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)』が好評、『鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)』(安政4年[1857年])も大当りでした。その後も黙阿弥が次々と書く新作によって小團次の人気は沸騰し、黙阿弥も作者としての名声を不動のものにしました。当時、講釈(こうしゃく:近代以降[講談(こうだん)])で人気のあった2代目松林伯円(しょうりんはくえん)の白浪物(しらなみもの)を素材に取り入れた作品も多く、盗賊や市井の無頼が活躍するスリルある展開、当時の社会の縮図が描かれる舞台に観客は新鮮な魅力を覚えたのです。成熟期に黙阿弥が書いた多くの生世話物(きぜわもの)は、幕末の世相を反映した社会劇ともいえます。

コラム
幕末歌舞伎と津藤 [津国屋藤次郎(つのくにやとうじろう)こと]

 幕末は無警察状態だったともいわれます。封建社会が崩壊する直前の時代。義賊や盗賊、巾着切りの小悪党など、無頼の徒が横行しました。黙阿弥が小團次のために書いた作に、いわゆる「講談種(こうだんだね)」の白浪物作品が多い理由はいくつかありますが、そのうちのひとつに黙阿弥と津藤の交流が考えられます。7代目市川團十郎が『勧進帳(かんじんちょう)』(天保11年[1840年])を初演するに際し、能『安宅(あたか)』の劇化を能役者たちと考案したのは津藤の家でした。そうして、伊藤燕凌(いとうえんりょう)の講釈[講談]の新味を加えた「山伏問答」が作られます。勝諺蔵(かつげんぞう)と名乗っていた25歳の黙阿弥はここに立ち会っていました。
 津藤とは、津国屋藤次郎(つのくにやとうじろう)こと細木香似(さいきこうい)。「今紀文(いまきぶん)」と呼ばれ、巨万の富を蕩尽(とうじん)したことで知られる人物です。津藤と黙阿弥は三題噺連中で同席するほか、天保期(1830年~1844年)末に津藤が黙阿弥の楽屋を訪ね、親交を結んだと伝えられます。品川遊廓などへ共にくり出す前、津藤の母は黙阿弥の身持ちと金銭のかたさを信頼し、津藤の財布を必ず黙阿弥に預けていたと伝えられます。津藤こそ、狂言作者に戯作者、画家など、当時の文化の作り手たちの交遊の中心にあって、幕末歌舞伎と花街の繁栄をその財力で支えた人物でした。しかし、浪費の果てに破産します。取り巻きたちが消え、下総(しもうさ)に退居した津藤の侘び住まいにも黙阿弥だけは見舞ったといいます。

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