歌舞伎編「黙阿弥」

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黙阿弥とその時代

黙阿弥をめぐる動き

地図で見る Flashアニメーション 江戸三座の動き/黙阿弥の住居

習作期~芝居と家業を行き来する~

萌芽期
習作期
成熟期
円熟期
引退期
3代目歌川豊国画
稽古の様子

 黙阿弥が19歳のときに父親が没しました。黙阿弥は家業を弟に譲り、狂言作者になることを決意します。鶴屋孫太郎(つるやまごたろう、のちの5代目鶴屋南北[つるやなんぼく])に弟子入りして勝諺蔵(かつげんぞう)と名乗り、天保6年(1835年)3月から市村座の作者部屋へ入ります。黙阿弥20歳の春です。
 当時の劇壇(げきだん)は、3代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、7代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)、5代目松本幸四郎(まつもとこうしろう)ら、文化・文政期(1804年~1830年)の名優がいまだ健在でした。なかでも黙阿弥と深く関わったのは、7代目團十郎です。天保11年(1840年)3月、『勧進帳(かんじんちょう)』が初演された際、河原崎座へ移っていた黙阿弥は弁慶(べんけい)を演じた團十郎の稽古につきあい、とくに公演が始まってからは、セリフをすべて覚えておいて後見(こうけん:舞台上で演者の補助をする役)として台本を持たずに團十郎を助けました。これによって強い信頼を得て、以後様々な引き立てをうけます。
 作者部屋の仕事は黙阿弥の肌にあいましたが、病気や家族の不幸を理由に出入りを繰り返します。本格的に劇壇に居つくのは天保12年(1841年)からで、柴晋輔(しばしんすけ、のちに斯波晋輔)と名を替えて二枚目作者としての経験を積みます。そして天保14年(1843年)11月に2代目河竹新七(かわたけしんしち)を襲名(しゅうめい)すると同時に、ついに河原崎座の立作者(たてさくしゃ)となります。

コラム
作者部屋と看板下絵
『島鵆月白浪』明治14年(1881年)
黙阿弥による下絵。
配役は同じ、左右の絵で絵組に相違

 江戸時代、芝居小屋(しばいごや:歌舞伎の劇場)の楽屋1階には「作者部屋」がありました。狂言作者は立作者を中心とする5、6人のグループで組織され、芝居を書くだけでなく色々な仕事をします。役者ひとりひとりに渡す書抜(かきぬき)や、小道具方(こどうぐがた)・衣裳方(いしょうがた)・鬘師(かづらし)・床山(とこやま)・頭取(とうどり)などへ渡す付帳(つけちょう)を書くのも重要な仕事で、彼らは作者部屋でこれらの職務を果たしました。
 劇場正面に掲げられた鳥居派(とりいは)の絵師による絵看板(えかんばん)は現在の歌舞伎公演でもおなじみですが、これは江戸時代から続く伝統です。江戸時代は鳥居派の代々の絵師とその弟子たちによる工房(こうぼう)が制作しましたが、新作の場合は事前に描くべき構図がわからないので、その下絵を描くのも立作者の職務でした。黙阿弥の下絵は特に細密(さいみつ)だったと伝えられていますが、現存するいくつかの下絵からは確かに絵心がうかがえます。

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