歌舞伎編「黙阿弥」

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黙阿弥とその時代

黙阿弥をめぐる動き

地図で見る Flashアニメーション 江戸三座の動き/黙阿弥の住居

萌芽期~日本橋の商人の家に生まれる~

萌芽期
習作期
成熟期
円熟期
引退期
初代歌川広重画
「東海道五十三次日本橋(行列振出)」
賑やかな早朝の日本橋

 黙阿弥は文化13年(1816年)2月3日、江戸日本橋に生まれました。幼名は芳三郎(よしさぶろう)。湯屋(ゆや)の株を売買する越前屋勘兵衛(えちぜんやかんべえ)の長男で、比較的裕福な環境で愛情をうけて育ちました。父は黙阿弥が7・8歳のころに芝へ引っ越し、新たに質屋(しちや)を始めました。黙阿弥は早熟だったようで、14歳にして柳橋(やなぎばし)で遊興(ゆうきょう)をしているのが見つかります。物堅い父は驚き、黙阿弥は勘当(かんどう)されます。
 その後の黙阿弥は、滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)らの書いた滑稽本(こっけいぼん)『花暦八笑人(はなごよみはっしょうじん)』そのままの生活を送りました。この本の内容は、遊び仲間が四季折々の行楽(こうらく)に繰り出し、様々な茶番(ちゃばん)によって人々の喝采(かっさい)を集めようとするものです。黙阿弥は江戸中のあらゆる遊楽を尽しますが、この時期の見聞が後年狂言作者となったときの貴重な糧(かて)となりました。
 こうした日々を経て、17歳のときに黙阿弥は貸本屋(かしほんや)の手代(てだい)となります。もともと読書好きで、貸本屋になれば好きなだけ本が読めるというのが動機でした。当時あらゆる書物を読みあさったことが、のちの芝居作りの重要な基礎となったのです。

コラム
貸本屋の手代

 黙阿弥が手代として働いたのは、京橋にあった好文堂(こうぶんどう)という貸本屋でした。店には人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり:近代以降[文楽(ぶんらく)])の台本である院本(いんぽん[丸本のこと])と歌舞伎の台本が特に充実していたといいます。さらに洒落本(しゃれぼん)、滑稽本、人情本(にんじょうぼん)、合巻(ごうかん)、読本(よみほん)なども揃っていたことでしょう。後年に黙阿弥が書いた芝居をみれば、この時期に数多くの本を読んだであろうことは想像に難くありません。
 黙阿弥が残した手記には「素(もと)よりなまけ者にて芝居を好み、茶番などして遊びあるいていた」と記されています。芝居小屋(しばいごや:歌舞伎の劇場)に行っては楽屋をのぞき、稽古を見学し、さらには狂言作者の仕事を覚えたといいます。身を立てるための真面目な勤めではありませんでしたが、狂言作者・河竹黙阿弥の誕生につながる重要な日々です。

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