老中・水野忠邦(みずのただくに)を中心とする改革強硬派は、娯楽の象徴であった歌舞伎を取りつぶそうと考えましたが、穏健派の遠山の金さんこと遠山景元(とおやまかげもと)たちはこれに反対。結局火災をきっかけに、それまで江戸の中心地にあった芝居小屋(しばいごや:歌舞伎の劇場)を当時は郊外だった浅草に移転させることで決着がつきました。
天保12年(1841年)から同14年(1843年)の間に江戸三座(えどさんざ:この当時は、中村座・市村座・河原崎座)の引っ越しは完了し、「猿若町」と名付けられた新しい芝居町には、歌舞伎だけではなく人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり:近代以降[文楽(ぶんらく)])の小屋も軒を並べ、以後明治前期までの約30年間は「猿若町時代」と呼ばれる時期を迎えることになります。
世相を反映したのか、この時期の江戸歌舞伎はそれまでと違った動きを見せるようになります。それを象徴するのが、顔見世(かおみせ)興行の衰退です。毎年11月に行われる顔見世興行は、かつて「江戸の花」と讃えられたほどお祭り気分に満ちた行事でした。しかし、この時期になると役者の入れ替わり時期が1月に変化し、それに伴って興行の賑やかさもなくなっていきます。また一方で、寄席(よせ)や見世物も手軽な娯楽として一層活発に行われるようになり、寄席芸(よせげい)で行われた演目が歌舞伎作品の題材になるなど、様々な娯楽が活発に交流するようになっていきます。































