歌舞伎編「黙阿弥」

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黙阿弥とその時代

歌舞伎をめぐる動き

地図で見る Flashアニメーション 江戸三座の動き/黙阿弥の住居

市川家と天保の改革

市川家と歌舞伎十八番

3代目歌川豊国画
代々の市川團十郎

 文化・文政期(1804年~1830年)から活躍を続けてきた7代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)は、天保3年(1832年)に團十郎の名を息子に譲りましたが、その後も元老的存在として劇壇に君臨しました。『勧進帳(かんじんちょう)』を初演するなど市川家の伝統を強く意識した彼は、お家芸の代表的な演目として「歌舞伎十八番」の制定に尽力する一方で、私生活では贅沢を極めるなど江戸の劇壇で並ぶ者のない権威を誇りました。しかし、天保の改革の一環として歌舞伎への弾圧が始まると、その態度も取り締まりの対象となり、天保13年(1842年)には江戸十里追放、という処罰が下されるのです。
 その息子の8代目團十郎は、若くして圧倒的な人気を得たものの、32歳の若さで亡くなってしまいます。その後、明治7年(1874年)に9代目が襲名するまで、團十郎の名前は20年もの間空白になってしまいます。

天保の改革と7代目團十郎

 天保の改革(天保12年~14年[1841年~1843年])は、幕藩体制の立て直しをめざすものでした。
 その一環として、贅沢の徹底的な取り締まりが行われ、高価な装身具や料理、小説や錦絵なども贅沢品として制限されます。芝居や寄席(よせ)などの庶民の娯楽も大きく制限され、中でも娯楽の中心であった歌舞伎に対する締めつけは厳しく、その象徴的な存在であった團十郎は「見せしめ」として格好の対象だったといえるかもしれません。

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