江戸の歌舞伎が全盛となったのは、4代目鶴屋南北(つるやなんぼく)が活躍し、多くの人気俳優を輩出した文化・文政期(1804年~1830年)。しかし、隆盛を支えた狂言作者や名俳優たちの他界、人気俳優7代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)の江戸追放、天保の改革(天保12年~14年[1841年~1843年])による都心からの芝居小屋移設などの影響で、しばらく退潮することになります。そんな幕末期に、再び江戸歌舞伎を盛り上げたのは、4代目市川小團次(いちかわこだんじ)と黙阿弥でした。白浪物(しらなみもの)と呼ばれる盗賊を主人公とした作品が、大当りを続けたのです。
明治期(1868年~1912年)になってからも、文明開化の新しい風俗を取り入れた散切物(ざんぎりもの)と呼ばれる作品や、9代目市川團十郎や劇場主12代目守田勘弥(もりたかんや)など近代化を指向する歌舞伎人たちによる、史実を忠実に描く活歴物(かつれきもの)という作品が生み出されました。この流れは、のちに演劇改良という運動となって、天皇による歌舞伎の観覧を実現するのでした。
文化13年(1816年)、江戸の商家に生まれます。さまざまな遊興を重ねたすえ、5代目鶴屋南北に入門。その後も、家業や健康状態を理由に劇界を何度か退き、出戻ったのちに立作者(たてさくしゃ)となり、2代目河竹新七(かわたけしんしち)を襲名。幕末の名優であった小團次と組んで、多くの白浪物の名作を世に出します。
明治期に入っても、9代目團十郎や5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初代市川左團次(いちかわさだんじ)らに、活歴物や散切物などを書き続けました。明治14年(1881年)に引退を宣言し、黙阿弥と名乗ってからも狂言作者としての活動を続け、生涯に360余もの作品を残しました。