新版歌祭文あれやこれや

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野崎参りとは

大阪府大東市にある福聚山慈眼寺

大阪府大東市にある、現在の慈眼寺
写真をクリックすると『河内名所図会』に描かれた野崎観音が表示されます。

「野崎の観音さん」と親しまれる福聚山慈眼寺(じげんじ)は、河内国野崎村[現・大阪府大東市]にあります。古く行基(ぎょうき)の創建と言われ、平安中期には江口の長者(遊女ともいわれる)が寺堂坊舎を再興したと伝わっており、沙弥入蓮(しゃみにゅうれん)という僧が秦(はた)氏の援助を得て堂舎を修造しましたが、戦国時代、三好、松永の兵火で焼失しました。元和年間(1615年~1624年)曹洞宗寺院として再興されたと伝えられています。

この寺がほぼ形を整えた頃、境内から見渡すと眼下に深野池(ふこうのいけ)が広がり、遥か先には、大坂の町が望めました。大坂から2里半[約10km]の近郊で、霊験あらたかな観音様がおられ、風光も明媚となると、気候のよい頃には、大坂をはじめ、近在近郊から参詣者が集まるのは当然でした。寺社参詣と物見遊山[レジャー]、切っても切れない関係でしょう。

当時の八軒家船着場の賑わい『浪花名所図会』「八軒家着船の図」 大阪府立中之島図書館所蔵

当時の八軒家船着場の賑わい
『浪花名所図会』「八軒家着船の図」
初代歌川広重  大阪府立中之島図書館所蔵

 

舟での参詣は、天満橋の八軒家(はちけんや)船着場[右図参照]からのコースが最も有名です。宝永元年(1704年)に大和川の付け替えが行われ、干拓事業により眺望は一変したと言いますが、新田の中に幅四間[約7.2メートル]の観音井路(かんのんせいろ)[井路は用水を導く溝・用水路]を開いて寝屋川と繋ぎ、舟はこの井路を通って「観音浜」に着き、歩行者は井路堤の道を通って参詣するようになりました。このように、水陸の便を得た野崎参りは盛況を呈しました。近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作『女殺油地獄(おんなごろしあぶらじごく)』[享保6年(1721年)大坂竹本座初演]の女主人公、油屋お吉(およし)など、道行く女達の派手な姿を見ながら、あれこれと品定めをするなど、往来の賑わいと参詣者の浮き浮きした様子がうかがえます。舟は多くの場合乗り合いでしたが、なかには一艘借り切って幕を美しく張りめぐらし、酒肴に鳴物入りという派手なものもみられたようです。

続けて『河内名所図会』に描かれた「野崎参り」を見てみましょう。



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