歌舞伎『伊賀越乗掛合羽(いがごえのりかけがっぱ)』[角書(つのがき)に「読売講釈(よみうりこうしゃく)」とあります。これは、当時の講釈から素材を得た、とのしるしでしょう。十五幕十六場]は、安永5年(1776年)12月、大坂中の芝居嵐七三郎座(あらししちさぶろうざ)で、奈河亀輔(ながわかめすけ)等の脚色により初演され、140日余りのロングラン、大当たりをとりました。
寛永11年(1634年)、伊賀上野で、渡辺和馬(わたなべかずま)が姉婿荒木又右衛門(あらきまたえもん)の助太刀を得て、弟の敵である河合又五郎(かわいまたごろう)を討った実説には、数馬が仕えた池田藩と又五郎を庇護した旗本との確執という側面がありました。それを講釈から大幅に取り入れ、御家騒動と敵討ちを結びつけた構想でした。
前半は実録による構想、後半は人相の変わる薬、不死身、男児の生血を用いる秘薬、と荒唐無稽な設定が続きます。しかし、特に、眼病の妙薬には「十歳までの巳年生まれの男児の生血」が必要で、さらにそれは「得心の上、切腹自害した生血」との条件がついています。そこに、荒唐無稽さを凌ぐドラマが生まれます。唐木政右衛門は、我子巳之助に自害を促すために、実は敵の子であると偽りを言い聞かせます。政右衛門の苦しい心のうちと、父の言葉を信じて自害する巳之助のけなげさが、胸に響きます。
この作品は、京都でも『けいせい宿直桜(けいせいとのいざくら)』と改題されて上演、間もなく浄瑠璃『伊賀越乗掛合羽』が上演され、名作『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』を生むに至ります。以後、歌舞伎の「伊賀越敵討物」は浄瑠璃に吸収された形となりました。
歌舞伎『伊賀越乗掛合羽』の大当たりにより、安永6年(1777年)には浄瑠璃化され、大坂北堀江市ノ側芝居、豊竹此吉座(とよたけこのきちざ)で『読切講釈
伊賀越乗掛合羽(よみうりこうしゃく いがごえのりかけがっぱ)』[時代物・十段・作者は近松東南(ちかまつとうなん)か]として上演されました。浄瑠璃も大当たりだったようです。歌舞伎は全十五幕十六場ですが、浄瑠璃化にあたり、内容に多少の省略があります。
浄瑠璃『伊賀越乗掛合羽』を通しで上演していたのは、文化初年(1804年)頃までで、『伊賀越道中双六』の「沼津の段(ぬまづのだん)」や「岡崎の段(おかざきのだん)」を挿入して上演しました。

上杉家の若君の放蕩を諫言した和田静馬(わだしずま)は、沢井股五郎(さわいまたごろう)の策に陥ってしまいます。佐々木丹右衛門(ささきたんえもん)に悪計を見破られた股五郎は、静馬の父和田行家(わだゆきえ)を殺し、名刀正宗を奪い行方をくらましました。足利家の眤懇衆(じっきんしゅう)[旗本]沢井城五郎(さわいじょうごろう)は、甥にあたる股五郎と母親の鳴見(なるみ)を匿い、栄深寺に立て籠もります。丹右衛門は鳴見と計り、城五郎の謀叛を暴いて自決させました。管領細川家の配慮で、静馬に敵討ちの赦免状(しゃめんじょう)が与えられます。静馬の姉婿である唐木政右衛門(からきまさえもん)も、わざと身を持ち崩し仕える主君から暇をとり、義弟静馬と共に、股五郎の行方を追います。股五郎の行方を追う過酷な日々、静馬は眼病を患い、政右衛門は、我子巳之助の命を犠牲にして、男児の生血で作った秘薬を静馬に服用させ、眼病は快癒します。股五郎は、伯父桜田林左衛門(さくらだりんざえもん)に守られ、逃亡の旅を続けています。しかし、股五郎包囲網は着々と股五郎を追い込んでいきます。静馬は政右衛門の助太刀で、伊賀上野にて股五郎を討ち取ります。