『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』の題材となった伊賀越敵討(いがごえかたきうち)は、寛永11年(1634年)11月7日、旧岡山藩士渡辺数馬(わたなべかずま)が、姉婿荒木又右衛門(あらきまたえもん)の助太刀を得て、弟源太夫(げんだゆう)の敵、河合又五郎(かわいまたごろう)を伊賀上野鍵屋の辻(いがうえのかぎやのつじ)で討ち取った事件です。発端は、若者同士の喧嘩でしたが、又五郎を匿った旗本(はたもと)安藤治右衛門(あんどうじえもん)らが、岡山藩主池田忠雄(いけだたかつ)の又五郎引き渡し要求を拒否し、大名対旗本の抗争に発展しかけた政治的背景がありました。
延宝6年(1678年)には、菊岡如幻(きくおかじょげん)による実録『殺報転輪記(さつぽうてんりんき)』が成立し、また、貞享4年(1687年)井原西鶴(いはらさいかく)『武家伝来記(ぶけでんらいき)』などにも、伊賀越敵討は取り上げられました。享保頃には、史実に小説的要素が加わり、『殺報転輪記』[流布本(るふぼん)]が成立しました。以降、様々な文芸的虚構が盛り込まれ、『伊賀水月伝(いがすいげつでん)』などが著されました。
荒木又右衛門という剣豪の、事実はともかく、36人斬りが喧伝され、さらに、太平の御代において「武士の義を立てる、情理の備わった武士の生き方」が、人々の共感と人気を得たのでしょう。実録小説の成長に寄与し、演劇への橋渡し的役割を果たしたのが、講釈師(こうしゃくし)の存在でした。大坂の講釈師の祖である吉田一保(よしだいっぽう)の存在が大きいと言われています。一保の講釈と『殺報転輪記』をもとに、伊賀越敵討は、まず歌舞伎として脚色されました。