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文楽編 近松門左衛門
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足跡をたどる
本ページでは近松門左衛門の足跡からその生涯を概観します。
近松は、越前(現在の福井県)の吉江藩に仕えた武士・杉森信義(すぎもりのぶよし)の次男として、承応2年(1653年)に誕生しました。しかし近松が10代の半ば頃、父が浪人し、一家は福井を去ります。
福井を離れた近松の一家は京都に移住します。近松ははじめ、京都で公家に仕えていました。しかし、やがて芸能の世界と出会い、京都の人気太夫であった宇治加賀掾の元で作者修業に励むことになります。その後、竹本義太夫と提携し、作者としての独立を果たしました。元禄の半ば頃からは、京都・都万太夫座の座付作者(ざつきさくしゃ・専属の作者)となり、歌舞伎作品の執筆に力を注いでいます。
近松は、世話物『曽根崎心中』の成功をきっかけに、宝永2年(1705年)、大坂・竹本座の座付作者になります。同時に、浄瑠璃作品の執筆に専念するため、住み慣れた京都から大坂へと移住しています。以来、享保9年(1724年)に72才で亡くなるまでの19年間、近松は大坂で、浄瑠璃作者として過ごすことになりました。
兵庫県尼崎市の広済寺(こうさいじ)は、晩年の近松が再興に協力し、関わりを深めた寺として知られており、近松の墓も残されています。同寺は、近松の浄瑠璃作品を刊行した、正本屋山本九右衛門(しょうほんややまもとくえもん)の菩提寺でもありました。母が没した際、近松は広済寺で法要を行い、色紙などを奉納しています。
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