年表

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  • 生い立ち

    1653~1672

  • 作者の道へ

    1684

  • 作者としての独立

    1692

  • 歌舞伎作者時代

    1702

  • 再び人形浄瑠璃の世界へ

    1714

  • 名作を生んだ大成期

    1721

  • 晩年

    1724

晩年

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近松の最後の作品『関八州繋馬』絵尽

晩年の作品

 享保7年(1722年)4月22日初演『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』は、近松が書いた最後の世話物です。しかしこの年から翌年にかけて、徳川幕府が、心中を扱った演劇や文学の禁止令を出します。これらの「心中物」は、風紀を乱すというのがその理由でした。70歳になり、体調も思わしくなかった近松は、以後、執筆活動を一旦休止します。そして、後継者となる作者の育成に、本格的に取り組むのでした。
 後に文耕堂(ぶんこうどう)と名乗るようになる松田和吉(まつだわきち)は、新人作者として近松の指導を受けます。竹本座の座本(ざもと・興行責任者)の竹田出雲(たけだいずも)も、近松の元で作者修業をした1人です。最晩年の約2年間、近松は自分の作品を書かずに、出雲と松田和吉の作品に添削を加え、実際に上演させていました。修業の甲斐あって、2人は近松の添削なしで、浄瑠璃作品を書くようになっていきます。
 近松最後の浄瑠璃作品となったのは、享保9年(1724年)1月15日初演『関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)』でした。最晩年の著作とは思えないほど、スケールの大きい、力強い物語でした。

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広済寺に残る近松の墓

生涯の終わりと没後

 享保9年(1724年)11月22日、近松は妻子に見守られながら、ついに72年の生涯を閉じます。
 近松の墓は、近松が以前から親しくしていた尼崎(あまがさき・現在の兵庫県尼崎市)の広済寺(こうさいじ)と、妻の実家の菩提寺であった、大坂・谷町(たにまち)の法妙寺(ほうみょうじ)の2ヶ所に建立されました。
 近松の没後も、その功績は長く世に伝えられています。近松と親交のあった儒学者・穂積以貫(ほづみいかん)は、近松の「芸というものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜(ひにく)の間にあるもの也」との言葉を書き残しました。これは、「芸の真実は、虚(作りごと)と実(実際のこと)の微妙なはざまに存在するものだ」とする芸論です。今日では、日本の演劇が生んだ重要な理論として、「虚実皮膜論(きょじつひにくろん)」と称されています。
 そして、近松が残した作品の数々は、近松の死後、およそ300年を経た現在も、文楽で上演される演劇として、また活字で読まれる文学として、高い評価を受けているのです。

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